モモナナじぇーぴーへ

このブログの本家は相楽ねっとです。
本家の新館をオープンしたので、このブログも新館へ移行します。

新館  モモナナじぇーぴー

私が小学校3年生のころ、夏休み、親戚の家に長期滞在したとき、いとこ(私より年上)が持っていた『数のふしぎ 形のなぞ』という小学生向けの本をなにげなく読んで、とりこになってしまいました。

たとえば、1メートルの長さって、どうやって決めたと思います? 絶対的な基準を作るため、地球の4分の1の1万分の1の千分の1を基準としようと、決まりましたが、そんなもん、だれが測るんです? 人生かけて、測った人がいるんです。現在の測量技術をもってしても、ほぼ変わらないほど正確な測量だったそうです。なんとロマンじゃないですか。

アルキメデスが偽の王冠を見抜いた話は有名です。知っていますか? 王冠に混ぜものがしてないかどうか、見抜けと命じられたアルキメデスさん、困ってしまいました。アルキメデスが風呂に入ったら、湯が湯船からあふれました。アルキメデスは湯船から飛び出し、裸で走っていきました。アルキメデスは金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、金塊と王冠のそれぞれを、ぎりぎりまで水を張った容器に入れました。王冠を入れると、金塊を入れたときよりも多くの水があふれ、金細工師の不正が明らかになりました。不正は科学に勝てません。

地球をぐるりとロープで巻いて、そのロープを10メートル長くして、均等に地球とのすきまを開けたら、どのくらいになると思いますか? 普通に思うと、1ミリもないはずです。ところがどっこいしょ。
地球1周を4000万メートルとすれば、
半径は、40000000÷(2×3.14)=6369426.75m
ロープを10メートル長くすると
半径は、40000010÷(2×3.14)=6369428.34m
差は1.59m
なんと、人間の背丈ほどもあります。そんな、お馬鹿さんな!!と思って、自分で計算してみても、そうなりました。もいっかい計算しても、そうなります。信じがたくて、もいっかい計算しましたが、やはりそうなります。一晩寝たら変わるかも知れないと思いましたが、変わりません。

他にも、いろいろネタはありましたが、極めつけは、九去法です。3年生ですから、桁数の多いかけ算を修得中です。ところが、計算間違いをよくします。
293×58=16994
この答えは合っていますか? 簡単な検算方法があります。
2+9+3=14 1+4=5
5+8=13 1+3=4
5×4=20 2+0=2
左辺を整理すると、2です。
右辺を整理すると、1+6+9+9+4=29 2+9=11 1+1=2
左辺と右辺は、2で一致します。だから、この答えは正しい。
まるで魔法のような検算法です。もっとも、高校レベルの数学で、容易に証明可能ですが、小学3年生には、魔術のように見えます。私は夢中になって、魔術を修得しました。それ以後、かけ算をミスしたことは、ほとんどありません。「全くない」とならない理由は、横着して九去法を適用しなかった場合と、九去法が必要条件であって十分条件でないことによります。

九去法をマスターするには、逆に暗算が磨かれます。が、こんな魔術を独り占めしていては罪だと思い、同級生に教えました。何人か、興味を持ったようですが、だれも、必死に修得しようとはしませんでした。それ以後、九去法は私の人生で最大の魔術でありつづけ、家庭教師等で後世に伝受しようとしても、だれも修得しようとはしませんでした。小学3年生だった私は、担任の先生に魔術を身につけたことを報告しました。そのとき、先生が言った言葉は、生涯忘れないでしょう。トラウマとなっています。
「それは、大学生が勉強する内容だから、小学生のあなたはしない方がいい」

おーまいがーっ!!

私は先生に言ってもだめだと悟り、九去法を自分だけの魔術としてはぐくんでいきました。

ゆとり教育がなぜ学校現場で成功しなかったかが理解されます。ゆとり教育は、九去法のような発展を企図していました。しかし、じゃじゃ馬のような「発展」は、学校教育というシステムには相容れません。

学力低下とは、日本人の思考能力、論理性が世界から見て、低下していることを言います。低下して当然ですね。

では、20-30年前には、日本の教育が世界最高峰だった理由は何でしょうか? 世界が、グローバルではなく、おおむね、自国で完結していたからでしょう。日本の教育は、内弁慶でしょう。それが悪いと断罪はできませんが、少なくとも現時点では課題でしょう。それを克服しようと、日本人はより一層、内弁慶へ向かっていると、私には見えます。

論理と屁理屈は、似て非なるものです。阿吽の呼吸で意思疎通できるのは、仲間内だけです。異文化を理解し合うには、共通のプラットフォームが必要です。つまり、いかなる場所、いかなる時代、いかなる精神基盤にあっても、同等の理解が可能となるプラットフォーム、それは、ロジックでしょう。

島国である日本は、大陸からの異文化接受を歴史的に行ってきたとしても、意思疎通をはかるべくロジックを育ててはきませんでした。日本の浮沈は、ロジックの養成次第ではないかと、私は見ています。

学校教育では、ロジックを養成しがたいです。もっとも、今後、ドラスティックに学校教育が変容すれば、別ですが。いや、時代は、日本の古式ゆかしい学校教育にドラスティックな変容を強いらざるを得ないでしょう。申し訳ありませんが、わが家は一歩先を行かせていただきます。「申し訳ありません」と言ってしまうあたりが、古式ゆかしい日本人のDNAがなせるわざです。

ゴン太は、親の想定を上回る世界へ踏み出したようです。親は、怖じ気づいて、子どもを抑え込んではなりません。親の価値観は、過去のものです。未来をこそ、見なければなりません。

学校が是か非かなど、取るにたりない問題です。世界がどちらへシフトしているか。その中で、わが家がどういうポジションを取るべきか。

世界を見てこそ、我がやの取るべき道が、見えてきます。つまり、世界を見てこそ、ローカルの取るべき道が見えるのではないかと思います。

 怒濤のような1カ月が過ぎ去り、まるでママが帰ってきたことが玉手箱を開けたかのごとき不思議な感覚で、果てしない年月が経過したようでした。長い年月が経過したなら、子どもたちはそれなりに成長していて当然ですし、そうあってもらわねばパパはもたないので、それは当然だったのに、ママは、子どもたちの成長に驚愕していました。

 ママが抱いた感想は
・リリコが関西弁を流暢にしゃべるようになっていた。
 決まり文句「パパはリリコのこと嫌いなのか・・」
 「きもちわるいことすんなー」「あっちいけー」「ダメ~!!」とか、、
  みかけにあわないセリフを平気でするので笑える。
・チャコがパパを譲ってリリコがパパを独占するようになっていた
・チャコとリリコでおままごとができるようになっていた
・ゴン太がママに気を遣うようになった
・ゴン太がパパ代わりができるようになった
・ゴン太とチャコが赤ちゃんの子守をしたがる
・チャコがトランプ(ババ抜き、七並べ)ができるようになった
・チャコが足し算に興味を示すようになっていた・・・・

 ところが、私からすると、「あんた、いったいいつの時代に生きてまんねん?」って感じで、経過した時間感覚に著しいズレがありました。

 とはいえ、ゴン太の勉強なんか、どこかへ飛んで行ってしまっていることはさすがのママにもわかります。あるとき、ママが、ゴン太の話を聞いていて、「なんでそんなことがわかるの!!」って叫びました。私も注意してみると、図書室で借りてきた鉄腕アトムのマンガを読破して、ストーリーを忠実に理解し語っています。問題なのは、鉄腕アトムのマンガは、小学校中学年程度の漢字がルビなしでいっぱい出ていることです。マンガの絵だけ追っているとは考えられない理解をゴン太はしています。何も勉強なんかしていないのに、3-4年生の漢字が読めて、複雑なストーリーを理解できるのでしょうか?

 算数も変です。何も勉強していないくせに、チャコと計算ごっこをして遊んでいます。

 私はそのとき、すっかり忘れていた事実をガツーンと思い出しました。勉強とは、教えてもらうことではありません。自ら学ぶことです。

 ホームスクーリングの第一フェーズにおいて、ゴン太に教えることは避けてきました。漢字でも算数でも、まずは自分で考え、試行錯誤してみる。よほど試行錯誤してから、ヒントを与える。最初から答えを与えることはしない。学校では、答えを教えることから入ります。教えた答えを覚えているかテストします。

 まるでチンパンジーのアイちゃんみたいですね。動物と人間の決定的な差はなんでしょうか? 私は「未知への挑戦」だと思っています。人間は、知らないものを考えたり想像したり研究したりします。既知を与えるだけの教育は、動物のしつけと変わりません。

 そんなことは、私にはわかりすぎるほどわかっていましたし、それへの危機感からホームスクーリングを選択したはずでしたが、「未知への挑戦」を子どもに求めることが学校教育と大差ないことに薄々気づきつつもどうにもできないでいました。

 「未知への挑戦」を子どもに求めることは、子どもにとっては未知ですが親にとっては既知です。予定どおりにことを進めようという、親のエゴがあります。4月13日、積水化学工業のモデルフォレスト時に、予定がずれ込んで、待機が続いたときに、モデルフォレスト指導員さんが、「森の仕事はこんなもんや。予定どおりに行く方がおかしい。予定がずれてふつうや。こんでええねん」とおっしゃっていました。まさに、そうなんですよ。予定どおりに進めようとするからこそ、逆へ進んでしまう。失敗も変更も想定外も、ぜんぶ想定内なのだと考えれば、きわめて親は楽だし、子どもも楽です。

 勉強しなさいというのはよくないが、勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない。かつて、サマーヒルを批判した「常識人」たちと同じ論理を私も踏襲していましたが、それは間違いです。「勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない」のは、大人が勉強することを予定しているからなのです。

 ママの入院中の1カ月、ホームスクーリングは崩壊状態でしたが、意に反して、理想的なホームスクーリングでもありました。なぜなら、親は子どもたちに対して何も予定していなかったからです。子どもたちは、ごく短期間に、びっくりするほど「学力」を伸ばしていました。

 これはまさに、親にとって未知のできごとです。しかしながら、親である私の、子どもだった頃の体験を振り返れば、理解できないわけでもありません。子どもを大事に思うおとなたちが、子どもの可能性を阻害している部分もあります。それは、親や学校を否定する主張ではありません。子どもを大事に思う気持ちは、何をおいても尊いものです。が、何事にも両面があるように、尊い親心にも陰があります。子どもを大事に思うがゆえに、大事に思うほど、子どもをスポイルしてしまう。諸刃の剣でしょうか。それは、どうにもできないことなのでしょうか。宿命であると断じてしまうのはたやすいですが、そうではないと、信じたい。それこそが、未知への挑戦でしょう。

 ホームスクーリングは、いよいよ第二フェーズへ転じます。

さてさて、2歳、4歳、7歳を抱えて、突然の父子家庭。入院した日は病院たらい回しの刑に合い、遠方に飛ばされる寸前で○○○病院へもぐりこむことに成功し、2つ目の病院で医療崩壊の現状を切実と語られ、リリコ出産時とはまるで状況が変わってしまったことを思い知り、それでもなんとか奇跡的に医療難民を避けられて、ほっとしましたが、「明日からどうなるんやろ・・・」と不安がよぎったりもしましたが、不安に駆られていられるほど悠長な状況でもありません。

深夜に2歳、4歳、7歳を連れて帰ったパパは、さっそく明日のご飯をセットして、子どもたちの弁当の確認をして、布団を敷いて、2歳、4歳を着替えさせ、2歳のおむつを替え、寝たと思ったらもう朝で、子どもたちをたたき起こして着替えさせ、おむつを替えて、洗濯して、布団をたたみ、とりいれた昨日の洗濯物(山の上は寒いので、冬季には洗濯は室内干しです)を、子どもたちにたたませて、朝食つくって、昼食作って、弁当詰めて、さあ、子連れ出勤です。子どもたちは別室にいさせましたが、なかなかおとなしくもせず、室内で騒いだりケンカしたり、外へ出て遊んだり。なかなか仕事になりません。

夜帰ると、子どもたちを風呂に入れて、乾きかねる洗濯物を乾燥機にかけたりストーブであぶったりし、布団を敷いて、台所を片づけて、着替えさせて、本を読んで寝させて・・・

2日目からは、職場で子どもたちも昼食、夕食をお世話になることとなり、少し楽にはなりましたが。

とうぜんながら、勉強などどこかへ飛んでいます。日々、生きることが最優先です。勉強みたいなもん、ほっておけ!!という感じです。ママがいると、子どもたちはなんとなく甘えて、できることもママにしてもらいがちですが、父子家庭でそれをやられると、パパはどないもなりません。子どもたちもよくわかっていて、というか、わからざるを得ない状況で、2歳児は着替えもおむつも風呂も自分ではできないので、4歳、7歳は自分でしろよな、って暗黙の圧力があり、パパが号令をかけると、子どもたちはさっと行動するようになっていきました。

「勉強」なんていう言葉はどこにもありません。生きることと関係ないものは棚上げです。え? 勉強は生きることと関係ない? そうなのかもしれません。

最初の週末、12月8日(土)、おむつを買って、ママの身のまわり品を買って、病院へ行き、洗濯物を受けとって、下着などを買い足して、パパが倒れては大変なのでインフルエンザの予防接種をして、子どもたちの本やあれこれ買って、夕食は外食で、家に帰るとパパはダウン。知らんまに子どもたちが布団敷いて、助け合いながら着替えて寝ていました。

翌日、朝起きて、ママの洗濯をして乾燥機にかけたけどなかなか乾かず、ストーブであぶったりなんなりして、もちろん子どもたちにご飯食べさせて、夕方病院へ。子どもたちはママと会えるのがうれしい様子。夜遅く帰ってあれこれ用事して寝たら、またまた朝起きてごはんして洗濯して子連れ出勤。

子連れ出勤も、1週間が限度でした。12月11日(火)、夜、大阪の私の親へ頼み込んで、ばあばに来てもらうこととしました。夜9時から子ども3人連れて大阪へ走り、ばあばを連れて、2時半帰宅。

12日からは、子どもたちはばあばと家で過ごします。ご飯と洗濯は私の手を離れて楽になりましたが、子育ての全部をばあばにいきなりまかせることもできず、夜帰宅してから、子どもたちがパパに飛びついてくるのを相手しつつ、おむつを替えたり、風呂に入れたり、ケンカの仲裁をしたり、本を読んだり・・・

金曜日の夜、大阪へ走り、ばあばを届けてそのまま深夜に帰り、土曜日、病院へ行って、洗濯物を受け取り、日曜日に仕上げて病院へ持っていき、そのまま大阪へ行って、深夜にばあばを連れてくる、というサイクルができました。

ところで、わが家の子たちは、サンタクロースを信じています。今までは、ママサンタクロースが、そっと通販でプレゼントを買って、12月24日夜、枕元に置いておいたのですが、今年はどうやら、そういう演出ができそうにありません。

「今年はママが大変なのでサンタさんに遠慮してもらった」って言おうか、とナナと話したりもしましたが、どうもそれは大人の勝手です。

ゴン太にそっと打ち明けました。
「サンタクロースはな、じつはな、パパとママやねん」
ゴン太は、なかばわかっていたようでもあり、チャコとリリコにサンタクロースの正体を伏せて、協力を求めると、ゴン太は快く承諾。大阪へばあばを迎えに行ったついでに、パパが行方不明となってトイザらスでプレゼントを買って、車の下に隠しました。

12月24日(月、振替休日)には、ナナの側のばあばが埼玉から来てくれて、ばあばチェンジです。25日朝、子どもたちが目覚めると、ちゃんとサンタさんが来てくれていました。子どもたちは無邪気に大喜び。この顔が宝なのよね。これがあるからこそ、どんな試練だって、耐えられる・・・

29日(土)、病院へ行き、主治医と話しましたが、逆子が直らないため退院はできず、このまま病院で正月を過ごすこととなります。1月7日で37週に入り、出産可能となります。4人目なので自然分娩も可能だろうが、逆子の場合、いっぱい機械をつけて万全の体制をとらねばならないこと、帝王切開の方が無難であることを説明され、不自然な自然分娩にこだわる理由はなく、とにかく母子の安全が第一なので、切っちゃってくださいと、ナナも私も迷わず希望しました。

ただ、主治医は、37週に入っても、できるだけ長くお腹にいた方がいいとおっしゃいましたが、予定日は1月28日ですし、3週間がこれほどまでに過酷だったのにこの先1カ月も持ちこたえられるだろうかと、私は呆然としました。

29日、病院から出て、そのままばあばを駅へ送り、埼玉へ帰っていただきました。さあ、またまた父子家庭の再来です。(週末のたびに父子家庭でしたが)

大掃除? そんなもの、今年はおまへん。わが家に正月が来るのは赤ちゃんが無事生まれてからです。年賀状も手をつけていません。赤ちゃんが生まれてから、考えます。

1月1日は大阪へ行き、私の両親と対面しました。そのすぐそばにトイザらスがあり、ゴン太とチャコはお年玉を使って自分でおもちゃを買いたがり、金額の範囲内で選ばせ、さらに福引きをしたいというので、500円でそれぞれさせると、チャコが1等賞!!!!! 25品ほど入った、チャコより大きな袋を受け取りました。縁起がいいのか、運を使い果たしたのか・・・

1日夜、病院へ行くと、さっそくママへ報告。

パパはだいぶと疲れがたまってきて、2日は頭がガンガンして寝込みました。そうはいっても、ご飯、おむつ、洗濯はこなします。3日、病院へ。ママとお腹の赤ちゃんが第一なのは当然として、それでもここでパパが何事かあるとどうにもならないので、できるだけ早くだしてもらいたいと私はとうとう根を上げました。

ナナも心配を募らせていましたが、どうにもできません。

それがお腹の赤ちゃんに聞こえたのか、4日にはお腹が張り始めました。主治医は、7日に帝王切開の予定を決めようと言っていましたが、5日に前倒しとなりました。

5日の午前3時ちょうどに、病院から電話があり、生まれそうだとのことです。帝王切開かどうか、私に判断を求めましたが、帝王切開が間に合わないほどお産が進んでいるようで、「どのようなものであれ病院の最善の選択に同意します」と答えました。

リリコの出産時に徹夜で立ち会って、帰りに新車をぶつけた苦い過去があるので、今回は自重していったん寝て、6時ごろ起きて、子どもたちをたたき起こし、すぐに家を出て、病院へ向かいました。

生まれたかどうかもわかっていませんでしたが、途中でナナに電話すると、無事に生まれたとのこと。8時に病院へ着き、元気な赤ちゃんを確認しました。帝王切開を予定していたのに、帝王切開手術の準備が間に合わないほどするすると出てきて、ほとんど医師が手を添えることなく、赤ちゃんが自力で、足から、すぽん!と参上したそうです。パパを困らせてはならんと思ったのでしょうか。4人目は大ハプニングでありながら、最も安産でした。

上3人は、立合出産でした。ゴン太は、チャコとリリコの出産を見ています。チャコはリリコの出産を見ています。リリコの出産時は、すべてをビデオ撮影しています。今回は、だれも出産を見ていません。それでも、赤ちゃんの誕生がいかに尊いものであるか、子どもたちもひしひし感じたと思います。

赤ちゃんは逆子であるのにこれ以上ないほど安全な生まれ方をしたし、ママも元気だし、ゴン太もチャコもリリコも元気に赤ちゃんの誕生を祝っているし、パパもなんとか持ちこたえたし、すべてが一番いい結果でした。

ゴン太の勉強? 野暮なことは言いなさんな。命を感じる以上の勉強なんて、ありますか? 千尋の谷とはいかなくても一尋の谷から突き落とすごとき自立ほど、優れた勉強はありますか?

父親として、子どもたちには、感謝の言葉しかありません。ゴン太とチャコとリリコには、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、ありがとうと言いました。そして、父親として至らぬところが多々あったことを、詫びました。そんな父親でも、子どもたちが力を合わせてカバーしてくれたことをあらためて思い、子どもたち1人1人を抱きしめました。

翌6日には、埼玉からじいじとばあばが来て、大阪からもじいじとばあばが来て、病院でご対面。双方の親は高齢にかかり、遠方でもあり、なかなか顔を合わせることが難しくなってきましたが、いい機会です。わが家の子たちは、どちらのじいじとばあばにも同じようになつきます。急に入れ替わっても平然としています。

わが家はめでたいムード一色でしたが、7日(月)から、私は仕事へ戻ります。9日(水)、昼間時間をもらって、退院です。37週に2日足りなかったため、微妙に早産です。大人の都合で出てきてもらったようなものですが、生命とは、微妙なものです。早産は、おっぱいを吸う力が弱いことにつながります。トウコは、出産後の体重回復が芳しくなく、赤ちゃんを残して母だけ退院という可能性もありました。そうさせてはなるものかと、ナナが母乳を絞ってほ乳瓶で飲ませ、基準体重をクリア。母の愛は強し。

あ、テーマは、ホームスクーリングなのですが、どっか行っちゃってますね。どこ行っちゃったんだろう? 次回に探すことにします。

学校に行かせるのも親のエゴといえばエゴだし、学校に行かせないのも親のエゴといえばエゴだし、子育て全般にも言えることだけど、子どものためにいいことをしている・・と勘違いするのではなく、何をやっても親のエゴなんだ・・ということを自覚して子どもに接しないと歯止めがかからなくなると思います。

親が子どものためと思っていいことをしているつもりでも必ずしもそれがその子にとって必要なこととは限らない。逆に、子どもにとっては一見過酷な状況に見えたとしてもそれがその子の将来にとってはプラスになることもあるかもしれない。。

自分が子どものために「いいはず」だと思っていても子どもから少しでも『違う・あわない』という反応があるのであれば、軌道修正するような余裕は常に持っていたいと夫婦でいつも話しています。

ねじりはちまきで徹夜を続けて勉強しないと東大や京大に合格しないと思っている人が多いと思いますが、私は現実にはそういう人を知りません。もしそのような人が実際にいるなら、特殊な能力をもっていると思います。なぜなら、そのような勉強の仕方は著しく非効率であり、非効率な方法で結果を出すというなら、きっとスーパーマンに違いありません。

仕事にしろ、勉強にしろ、労働量を増やすことで、ある程度まで生産力は向上します。しかし、「ある程度」を超えれば、労働量を増やすほど生産力が低下していきます。しなければいけないが、しすぎてもいけない。では、制限なき向上をしていくには、何が必要なのか。モチベーションでしょう。たとえば「めざせ東大!!」などという張り紙は、モチベーションではありません。それは、自らを追い詰める強迫です。モチベーションとは、それをせずにいられない思い、知らない間に夢中になっている感覚、そういうものを成り立たせている基盤をいうはずです。

教育は、強迫であるより、モチベーションである方が、望ましいはずです。
強迫は、危機駆動型です。「勉強しないと、落ちこぼれる、取り残される」
モチベーションは、希望駆動型です。「なんて楽しいんだろう! あれ?知らんまに勉強していた」
学力を向上させるには、勉強時間を増やしてもしょうがないです。むしろ逆効果でさえあるでしょう。モチベーションこそ、増大させねばなりません。

と、私は充分にわかっていましたし、モチベーションの増進が学校教育が苦手とする部分であることも了解していますし、ホームスクーリングにおいて、最も重点を置かねばならないポイントだと考えていました。

そこで、ゴン太が1年生になる前後に、多様な図鑑や読み物をたくさんそろえ、どんな興味にもなんらかの手がかりをみいだせるよう、環境整備しました。ゴン太が2歳の頃から、ベネッセの通信講座を毎月購入していましたが、ゴン太の強い希望によって、小学1年生用の「チャレンジ1年生」も購読しました。

ただ、「読み書きそろばん」に当たる部分は、スポーツで言うところの基礎体力作りでしょうし、それらは毎日トレーニングを重ねる必要があると、私は考えました。日本の童話を薄くプリンタで印刷して、なぞって書く練習。漢字のドリル。私が表計算ソフトで作成した計算シート。これらを日課としました。強制はいけません。
「しなくてもいいけど、したほうがいいよ」と、おかしな理屈でゴン太に接しました。
しなくても、怒りません。
「今日、勉強した?」
「しなかった」
「あ、そう」
こういう会話がなされる日も多かったです。

でも、ゴン太は、しないといけない気がして、無理に勉強することも多く、勉強がいやでいやでたまらないと愚痴るようになっていきました。「いやならしなければいい」と言っても、それがよけいに強迫的に聞こえるようでした。

とはいえ、課題を全部こなしたとしても、2時間弱ですし、学校に行くことを思えば、うんと学習時間は短いはずです。計算も漢字も、まずまず身についていきました。

だとしても、ゴン太は、いやでいやでしょうがありません。こんなことでは、学校に行っても、多衝動児であるとか、落ち着きがないとか、問題視されそうですし、ゴン太自身、枠にはめられて苦しみつつも持ち前の特性を押し殺していく、ということになりそうです。それが、成長なのだ、と説明されるでしょう。集団生活なのだ、社会性なのだと、説明されるでしょう。

出る杭にならねばならないのに、出る杭を育てなければならないのに、出る杭を打ちのめしてしまう。それが美徳なのでしょうね、日本という沈み逝く島国では。

そうなっては子どもに未来を与えられないので、そうならないよう、「勉強がイヤだ」という気持ちを尊重して、勉強しなくてもいいよといいながら、それでもトレーニングは大事なのだと醜い矛盾をつのらせていました。

いつの間にか、「勉強したらテレビをみてもいいよ」というルールができていて、ゴン太はテレビを見たい日だけ勉強し、見たいテレビのない日は堂々と勉強しないという、動物調教型になっていました。

勉強しなさいというのはよくないが、勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない。かつて、サマーヒルを批判した「常識人」たちと同じ論理を私も踏襲していました。

あきらかに、ゴン太にとって勉強はストレスであり、それとつきあうナナにとってもストレスとなっていました。ストレスとストレスの衝突で、ゴン太は勉強の成果をママでなくパパに見せるようになっていきました。

そんなこんなで12月4日、突然、ナナが切迫早産&逆子を理由に入院を指示されました。たいがいのことが想定内である私にとっても、まったくの想定外であり、さてさて、明日からどうしたものやら・・・。7歳、4歳、2歳の子を抱えた父子家庭・・・。

絶体絶命のピンチです。するとそこへウルトラマンが・・・来るわけもないし、どないかこないかして、生きていくしかありません。
危機駆動型 逆噴射 希望駆動型。
第二フェーズの予告をして、今日はおしまい。