勉強は、させるものか、するものか

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 学校教育は、習うべき内容と習う時期が決まっていて、毎日のスケジュール(時間割)も決まっていて、「それ以外」がありえません。

 かたや、ホームスクーリングには、そういうものがありません。自分で決めてその通り実行することはできますが、そうするかどうかは自分の選択です。

ホームスクーリングにも、いろいろな考え方があり、スタイルがあります。
1.カリキュラム・スケジュール・目標を設定して、そこへ向けてがんばるやりかた
2.子どもの自主性にまかせ、やりたいと思ったことをさせるやり方

1を管理型とすれば、2は自発型となるでしょう。
1は「子どもはほっておくと勉強なんかしない」という前提に立ち、2は「子どもは無限の可能性と意欲を持つ」という前提に立っています。
大人から見ると、1は「子どもを指導する」のであり、2は「子どもを信じて支える」のでしょう。

1は典型的な学校教育であり、2は典型的な(学校否定型)オルタナティブ教育でしょう。
世の中の多くの人は、2が成立しうるとは信じられないようです。
しかし、そのことが子どもを追い詰め、可能性を狭め、創造性や自主性を阻害していることに気づかず、不登校「問題」を深刻にしてしまっているのだという、(学校否定型)オルタナティブ教育にみられる主張は、正しいと思います。

私自身は、どちらかというと、2の考え方に近いです。しかし、「2が正しいのだ」と断言しきることにはためらいがあります。
子どもとは、教育とは、単純に割り切れるものではなさそうです。
その意味では、単純に割り切ってしまおうとする学校教育のあり方には、危険を感じます。が、いっぽうで、強く学校教育を否定してしまう考え方にも同様の危険を感じます。

勉強は、させるものではなく、するものであることが理想です。このことには、だれも異論がないでしょう。問題は、子どもが自発的にするかどうか。ここをどうにかできないと、「理想はそうであっても現実は・・・」となってしまいます。

が、日本の教育が創造性、論理力、マネジメント力、独創性、プレゼンテーション力といった、まさに「21世紀に必要な能力」を養成せず、時代から取り残されていることは、怖ろしい現実です。
このことは、さまざまなところで指摘され、論じられています。

学校教育が、今のままでいいと考えている人はあまりいないでしょうが、学校教育のどこに問題があるのかという認識は、人によって大きく違うようです。
私は、「勉強はするものか、させるものか」にあると見ています。
公共性、愛国心、社会性、家庭、地域といった、昨年の教育基本法改正で重視された事項は、けっきょく、「するのか、させるのか」という問題に帰結しそうに思います。

公共性、愛国心、社会性、家庭、地域といった事項が「どうでもいい」と考える人もあまりいないでしょうが、教育基本法改正への批判はそれへの「押しつけ」に集中していたようです。「いいことだけど、押しつけるのはよくない」ということでしょうか。
でも、教育基本法改正に書いてあっても、それが「押しつけ」であるのかどうか、私にはなんとも言いかねます。

少なくとも、教育基本法改正は、ホームスクーリングを否定していないし、むしろ奨励しているようにも読めます。親が責任を持って子どもに対するなら、ホームスクーリングはその最たるものです。親が責任を持って子どもに対するなら、国は親に対して、公共性、愛国心、社会性、家庭、地域を子どもに強いるよう、親に強いることが可能でしょうか?

公共性、愛国心、社会性、家庭、地域は大事にすべき事柄です。それらに対して、親と子が主体的であるなら、何の問題もないはずです。
「するものか、させるものか」、このことをじっくり考えてみたいです。

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