2007年11月アーカイブ

不登校が「不登校問題」であるのは、複雑であるように見えて、実に単純です。「学校へ行かないといけない」という金科玉条が根源です。「学校へ行かないといけない」が真実なら、学校へ行っていない状況は誤りであり、正すべきです。多くの人はそう思っているようです。

が、「学校へ行かないといけない」をちょっと追求してみると、その根拠はないことに気づきます。むしろ、現状の保守勢力は「自己責任」を拡大しており、教育基本法改正においても、自己責任の拡充が企図されていることは明らかです。家庭、地域社会を成り立たせていくには、自己の責任なくしてはありえないことです。かたや、格差是正が言われています。私はそれを、「自己責任を全うし得ない人をどう救済するか」という文脈に置き換えてみています。

さて、不登校問題にもどりますが、不登校問題の解決は非常に困難とみなされながら、実は非常に容易であると見ています。すなわち、「学校へ行かないといけない」という前提をはずせば、即解決なのです。もっとも、不登校という現状は変わりません。大事なのは、学校へ行っていないというのが、「改善すべき問題」であるのか「単なる事象」であるのかということです。

ゴン太に対してホームスクーリングをしていて、何も間違ったことはしていないのに(むしろ政権与党からすれば奨励すべき?)、ひけめに感じる必要などは全くないのに、どこかしら配慮せねばならないうやむやが現存していることが、教育上の最大の問題ではないかと思います。

先日ゴン太は、野殿童仙房小学校跡地で行われた、あるセカンドスクールに参加しました。小学生が30人余り参加しています。その中で、田舎の子はゴン太1人です。さらにホームスクーリングはゴン太1人です。

自分が1人、際立っていることを怖れてはなりません。1人で立つことを怖れるなら、マスへの迎合を志向することとなり、それは20世紀型人生観です。幼い子どもだから、そうはいかんだろうという反論が出ることを想定しています。また、1人で立つことを親の無意識に強要しているのではないかという反論も想定しています。

ゴン太に、セカンドスクールで、学校に行っている子たちと自分で違いを感じたかと聞いたが、とくに感じなかったそうです。ただ、学校へ行っている子たちは、宿題をたくさんもってきたといいます。ゴン太は、たいへんだなあと思ったそうです。私が以前、「いやいや勉強しても身につかない」と言ったことを覚えていたし、「どんなことでも勉強だ」といったことも覚えていました。勉強とは何か、ゴン太は学びつつあるようです。

ゴン太は、大人が懸念する「集団に対する自己」を確立しています。もっとも、その裏打ちは、親の生き様に他なりません。ゴン太の「自己確立」には、私が生命を賭する責任を持ちます。

ところで、学校へ行かせている親たちは、子どもの成長に対し、「生命を賭する責任」をお持ちでしょうか? 私がこういう挑発的な問いかけをするには、そうでない親が多いと見えるからです。また、そうでない親ほど、学校や社会に不満をぶちまけています。

改善すべきは、まず自分です。そこには、他へ責任転嫁し得ない、自分の子どもへの愛情があります。世界中を敵にまわしてでも子どもを愛するのだという覚悟があります。その覚悟には、「親のプライドなどどうでもよい」ということも伴いますが。

ゆとり教育批判論には、こういうものが目立ちます。

学校が十分教えないから塾で補わないといけない
  ↓
子どもが忙しくなる

その結果、子どもは創造性や応用力を育成することなく、結果を出すことに忙殺されてしまいます。これは由々しき事態です。学校で十分な内容を教えさえすれば、子どもは余裕ができるはずで、教科書以外の様々な学びや遊びに打ち込めるはずです。

あれ? なんかおかしい。ゆとりをつくるはずのゆとり教育が子どもたちからゆとりを奪い、ゆとり教育批判論がゆとり回復をめざしている? 何のことはない。ゆとり教育批判論がめざしているのはゆとり教育そのものではないか。では、なぜゆとり教育をめざすためにゆとり教育を批判(否定)せねばならないのか。文科省と教育現場の乖離が諸悪の根源でしょうか。

現場では骨身を惜しんで奮闘されている先生方も多くいらっしゃいます。それをわかった上で申します。学習指導要領には、最低限だけ記されていて、あとはいくら上乗せをしてもよいというのが、ゆとり教育でした。本当に自由ですし、先生方がどのようにおしえてもよかったはずです。なのに、現場は大混乱。

教育現場というものは、マニュアルで規定されねば動けないものなのでしょうか。ある意味、最もゆとり教育が必要だったのは、教育現場(教育委員会と先生方)なのではなかったでしょうか。
中教審でゆとり教育への反省が表明され、見直しが打ち出されました。ゆとり教育という言葉は文部科学省サイドはほぼ使ったことがなく、「俗称」ですが、解釈や受け止め方は大きな幅が生じてきました。20年ほど前までは、詰め込み批判一辺倒に近かったのに、最近では、おおむね、ゆとり批判一辺倒です。

ゆとり教育へ賛成か反対かというのは、難しい質問です。というのも、今、ゆとり批判をされている論調がわかりにくいからです。ちょっと整理してみます。

ゆとり教育は、学習時間を減らすものである。
  ↓
読み書き計算という基礎学力がじゅうぶん育っていない。
  ↓
基礎学力が弱いと、応用力が身につかない。
  ↓
だから学力が低下した。

その改善策として言われているのが、

学習時間を増やす。
  ↓
読み書き計算という基礎学力をみっちりやる。
  ↓
応用力を養う。
  ↓
学力が向上する。

ここで、奇妙なのが、改善策の発想は、20-30年前、私が小学生から大学生にかけてのもの、そのものです。私は共通一次の4年目で、全受験生に5教科7科目が課せられていて、教科書の分厚さも、今とはまるで違う、詰め込み教育のピーク時でした。その私たち世代が社会から批判されていたのが、「応用力がない」ということで、「学力が低下した」とも言われていました。

その後、経済成長が停滞したり、1990年代に世界的な構造変化が起きたりして、教育も見直しが進み、学力とか、応用力とかいう、教育の目指すものが議論されて、問題解決力→課題発見力といったテーマが浮上してきました。
子どもたちが、問題解決力や課題発見力を身につけなければいけないという考えは、ゆとり批判論者もだいたい持っているようです。

こういう「応用力」には、2つの事柄が必要なはずです。
1.基礎学力、幅広い教養。
2.時間的・精神的ゆとり。(試行錯誤する時間、失敗を許容する環境)

この2点に付随して、様々な要因が必要とされます。
リテラシー、異質なものと交流、異文化理解、共生、社会性、世界・国・地域と自分の関わり(あえて愛国心という表現は避けます)、表現力、プレゼンテーション力、マネジメント力・・・

友だちと仲良く遊ぶということはもちろん基本ですが、もっと広く、世界を見て、世界を知り、世界と交わり、世界の中で考えることが、子どもの頃から求められるはずです。それは、単に英語の早期教育というシンプルイシューではなく、智のあり方の問題です。

ということで、私には、ゆとり教育そのものも、ゆとり批判も、同じ方向を見て、同じことを言っているようにしか見えないのです。

テクニカル的には、ゆとり教育には未解決の問題が多いです。詰め込み路線でやってきた学校システム、先生方に、回れ右!といったって、急には回れませんし、回りすぎて目が回った人もいるようです。

ゆとり教育を検証し、批判し、改善していくことは、だいじなことです。しかし、いま、「検証」が欠けているように思えてなりません。学習時間を増やせば学力が改善するのか。学習時間を増やすのが悪いことだというのではなく、増やすことの中身です。

私の子は、今、小学生になったばかりで、これからダッチロールする学校教育世代に突入するわけですが、ホームスクーリングを選択した私には、「対岸の火事」とも見えます。学校教育には、おそらく学校に通わせている多くの親よりも強い関心をもっており、学校教育がナショナルミニマムであり、社会に不可欠なものだとして案じていますが、わが子が巻き込まれずにすむ安堵感は、なんとも不思議な感覚です。
さて、一昨日与えたデジカメですが、さっそくゴン太は一人前に?使い込んでいます。ふだん、パパやママがしょっちゅうデジカメを使っているので、デジカメをどう使うか、という説明はいらないようです。

ゴン太は、自分が写した写真を、自分のPCで取り込みたいと言いました。わが家では、ファイルサーバを使っており、デジカメ画像は各PCではなく、ファイルサーバに保存しています。だから、どのPCからでも同じようにアクセスできます。しかし、ゴン太とチャコのPCからはファイルサーバにアクセスできません。子ども達にサーバをさわらせることは危険と思うからです。子どもたちのPCには、サーバから一部の写真データをコピーしています。

ゴン太が自分のPCに保存したとすれば、いい学びができそうです。しかし、データの保守(バックアップ等)はなされず、また、ゴン太のPCが起動中でなければ、他のPCから見えません。わが家には、プリンタが3台あります。カラーレーザー(A4)だけ、ネットワークプリンタで、全てのPCから印刷可能です。インクジェットが2台(A4とA3)ありますが、この両者はUSB デバイスサーバを経由してLANに接続されており、4台のPCから印刷可能です。残る4台(うち子ども用2台)はインクジェットで出力できません。こういう仕組みを、7歳のゴン太が理解して、どういうふうに選択するか、考えるネタにしてみます。

ところで、乾電池型充電池が使えなかった理由は、3つ考えられます。
1.デジカメの故障
2.充電器の故障
3.充電池の故障

このうち、1は否定されます。なぜなら、乾電池が使えたからです。おそらく、2も否定できそうです。充電した時、電池が熱くなるからです。3が可能性が高いです。ここまでの考え方を、ゴン太は理解できました。
10日に、充電池を2本、買ってきました。充電すると、使えます。そこで、原因究明と解決ができました。

11日に外出した時、ゴン太は、「充電池が使えたのだから、あと2本買ってほしい」と言いました。「どうして?」と聞くと、「充電しているときに使えないから」とゴン太が答えました。何でもないことのようですが、ここにすんなり気づいてくれたのは、かなりうれしい。まだ起きていない事態を想定して対策を考える能力というのは、あんがい多くの人が苦手とします。充電池ぐらいどうってことはないのですが、まず、このへんから学びを起こしてくれるとありがたいです。

こういう能力は、なかなか学校教育で育てにくい部分です。でも、実社会では、かなり重要で、生きる上でも、仕事でも、大きな差ができてきます。

処分しようかと思っていたデジカメが、意外にもすぐれた教材と化し、ゴン太が重要な学びを深めてくれる様子を見れば、あらためて、学びとは何なのか、と考えてしまいます。

学校教育では、情報教育として、既成のPCを与え、管理下で制限的な使い方をし、子どもの興味とは関係なしにカード作りやワープロデータ作りをしているところが多いようです。インターネットにもフィルタリングをかけているでしょう。子どもたちは、何を学ぶでしょうか?

PCや情報機器は、古くさくても非力でもいいから、壊してもいいものを与え、または自作させ、様々な状況を分析し、課題を発見し、自分で解決していくこと。そうすれば、PCなんて勝手に使えるようになります。情報教育で大事なのは、PCを扱うというオペレータ的な要素より、必要な情報を入手し、分析・加工し、適切に発信し、またあらゆる危機に対応していくこと、つまり、リテラシー的な要素だと思います。

PCやデジカメを買い換えた時、同時に貴重な教材が誕生しています。
私は、パソコンを自作します。なので、台数が増えていきます。とうぜん、古いPCが浮いてきます。その活用として、子どもが2歳になったら、PCを与えています。パパやママのPCをさわらないよう、予防線でもあります。この件は、また書くとして、昨夜、ゴン太が急にデジカメを欲しがりました。

今、わが家にはデジカメが4台あります。うち1台は、昔使っていたけど今は全く使っていない機種です。これをゴン太に与えました。7歳児が専用のデジカメを所有するのは珍しいと思いますが・・・

乾電池型充電池を使用するタイプです。長らく使っていなかったので、充電池が作動しません。乾電池なら作動します。そこで、液晶をoffにして、乾電池で1日撮影を繰り返しました。機械を使うということ、しかしながら思うようにならないということ、いい勉強ではないかと思っています。

こわしてもいいので、デジカメを通じて、いろんなことを学んでほしいと思います。
今年の春から、ゴン太は小学生です。

ホームスクーリングというのは、「学校に行かない」のではなく、「別の学校へ行っている」のです。けっして、教育をしていないわけではありません。むしろ、学校ではできないような、教育をしていくことにこそ、意味があります。
学校というのが何であるか、なぜ学校でない学びを選択したか、小学校進学時に、ゴン太としっかり対話をするよう心がけています。

さて、4月から、子どもがいやがらないように気をつけながら、基礎体力作りをしています。
絵本の書き写しはやりにくそうになってきたので、昔話を薄く原稿用紙に印刷して、鉛筆でなぞるようにしました。算数は、1桁の足し算・引き算を毎日25問(私がExcelで自動作成)。この2つは、私がPCで教材を作成しました。ただし、勉強することを強制はしていません。

春頃、勉強をいやがった時期があり、勉強させようとしたら絶対に逆になるので、勉強させたいときにはその逆をやった方がいいと考えました。「安全に必要なのは危険であり、健康に必要なのは毒である」の発想です。ゴン太に、「勉強することが大事だということを勉強するために勉強しないということをやってみるのも勉強のうちだから勉強するのをやめてみなさい」と言ったけど、さっぱり意味がわからない様子です。3回同じことを言ってみました。けどやっぱりわからなかった・・・。

ゴン太は、一生懸命考えて、「勉強してはいけない」というふうに理解したようです。私の言葉は「勉強禁止令」へとすり替わっていきました。勉強してはいけません。本を読むことは勉強ではない。図鑑を見ることは勉強ではない。虫を観察することは勉強ではない。と、ゴン太は無理に自分で言い聞かせていました。

そのうち、どうも、勉強と勉強でないこととの区別が難しくなってきて、勉強しないでいることが意外と難しいと、おかしな事態になってきて、勉強しないことをギブアップしてしまいました。

勉強禁止?後1カ月ほどで、禁止令解除。それからしばらくは、すいすいと勉強しました。

子どもに対して、させてはいけないことと、あまりさせない方がいいことがあります。
親の主観にもよりますが、ゲーム、テレビ、ビデオ、マンガ、といったエンターテーメント系、インターネット、携帯、パソコンといった情報系、アダルト系、反社会系、危険系など。
こういったものは、子どもの精神面がゆがめられるおそれのある毒系と、子どもの生命や身体が脅かされる恐れのある危険系とに分けられそうですが、私は、いずれにせよ、毒や危険を排除しすぎるとかえって危ないと思っています。かといって、無防備なのもいけませんが。

毒は薬に通じ、危険は安全に通じます。
子どもに性を大切にして欲しいが故に、性をタブー視せず、赤ちゃんがどこからどうやって産まれるか、ということをリアルに解説した絵本を与えています。7歳のゴン太も、4歳のチャコも、2歳のリリコも、興味津々です。親は、冷や汗です。「パパとママもこうするの?」という質問が来たらどうしよう・・・
でも、不思議なことに、子どもたちはそう尋ねません。わかっていて遠慮しているのか、聖域だと感じているのか、なんとも微妙ですが。
子どもたちには2歳になると、専用パソコンを与えています。幼児にPCを与えることには是非が分かれそうですが、毒にもなりうるからこそ、与えています。(そのかわり、親がとことん導いていける自信を伴いますが)
ジャンクフード、夜更かし、ビデオ、いずれも否定しません。それが普通となっては困りますが、禁止すればなおのこと子どもは興味を示すでしょうし、毒とのつき合い方を学習できません。

危険についてもそうです。私は、あえて子どもたちに危険を与えます。最近の、都市での子どもを巻き添えにする犯罪は、子どもがどうすることもできないので、与えるべき危険とは思えませんが、幸い田舎では、その点、マシです。むしろ、田舎での危険とは、マムシ、蜂、転落、ケガなどです。これらを排除してはいけません。身を守る術を学習させねばなりません。

安全に必要なのは危険であり、健康に必要なのは毒である。私の持論です。すると、勉強に必要なのは・・・

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