教育委員会へ提出した文書3 学校教育の諸問題

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 目的を設定しカリキュラムに沿って行うのが学校教育。しかも、平等・公正・中立である。「平等・公正・中立」が機会でなく結果について重要であるなら、知性も課題発見力も自立もありえない。なぜなら、知性とは新たな発見であり、課題発見力とは「あえて新たな発見を促すこと」であり、自立とは「新たな発見が認められること」に他ならないからであり、結果が規定されるなら新たな発見の余地は生じない。
 このことは昭和52-53年の学習指導要領改訂ににじんでいるが、その後「ゆとり教育」として果実され、現在、ほぼ否定されている。カリキュラムを前提とする学校教育においてカリキュラムを超越することは本来的な矛盾をきたす。現在は、その矛盾が抜き差しならぬ状況。

学力低下
 学習時間の多寡、学習内容の濃密に原因があるのではなく、構造的な問題。課題発見力を求められているにもかかわらず、それを要請できないシステム。

いじめ
 「いじめがあるか、ないか」という二元論的対応はそもそも非現実。いじめは異文化接受の問題であり、「知性→課題発見力→自立」によってその存在が非問題化する。
 逆にいうと、知性の欠如がいじめを問題化し、課題発見力の欠如がいじめを解決困難な問題とし、自立の欠如がいじめを深刻な問題とする。いじめが起きると、「心の教育」が叫ばれるが、思いやりの欠如がいじめにつながるのではなく、異質なものの受け入れ方が未熟であることがいじめをこじらせるのではないか。いじめの「解決」には知性の養成が要請される。果たして、学校教育で知性の養成は可能か? それは、「学力」には違いないが、テストで計測できる学力ではない。

不登校問題
 法解釈の根本的な誤りが致命的。
「就学義務」ならば、学校に行かないことは問題。
「教育義務」ならば、学校に行かないことは事象であって問題ではない。

研究者からの示唆に富む指摘
2006年(平成18年)12月1日(金)読売新聞
教育ルネサンス フォーラム「義務教育改革シンポジウム」
田中耕治 京大教授(1952年生まれ。専門は教育方法学)
「学力」適切な評価法必要
 学力は「わかる力」、能力は「生きる力」と言い換えることができる。学力は能力の一部だが、中軸を占めると考えたい。いかに能力に結びついた学力を身につけるかが課題だ。
 現在の論争は「ゆとり教育」批判から起こった学力低下問題に端を発するが、学力の質を問わずに水準の低下ばかり論争しても、本質的な解決にはならない。学力実態を把握するには、「学力の水準」「学力の格差」「学力の質と構造」「学習への意欲」の四つの視点を持つべきだ。
 国際学力調査を分析すると、我が国の学力水準は、順位が低い分野があるのは確かだが、過剰に反応するほどではない。ただ、中学生の学力低下には注意が必要だ。小学校中学年から中学生まで、学習の遅れの固定化傾向が見られる。
 学力の中身である質と構造を見ると、応用力や読解力を問う課題を解く率が低い。中学生では、それ以前の基礎学力にも揺らぎが見られる。全体の学習意欲も年々低下しており、どう意欲を喚起するかが課題だ。
 格差の放置でも、低いレベルでの平等でもなく、高い質の学習を多くの子供に提供することが理想だ。
 現在、必要な学力とされる「リテラシー」とは、「文化を読み解き、再構成する能力」と規定できる。これは、三つの要素を経て形成されると考えている。
 まず「『本』を読むこと」。新しい文化の内容を能動的に習得することだ。次に「『本』で世界を読むこと」。自分たちの生きる世界をより深く理解するため、習得した知識を活用することを意味する。さらに「自分の『本』を創ること」。学んだことを自己評価を加えながら表現するために探究することを指す。
 リテラシーは従来のテスト法では評価できない。米国でも、標準テストが生活からかけ離れているとの反省から、最近は「真正(本物)の評価」をしようという機運が高まり、学んだことを何らかの表現作品として発表させるパフォーマンス評価法や、学習計画や作品、自己評価を収める「ポートフォリオ」の評価が注目されている。
 リテラシーをはぐくむには、それにふさわしい評価を行うことも求められる。そうすることで初めて「確かな学力」が形成される。

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