2008年6月アーカイブ

私が小学校3年生のころ、夏休み、親戚の家に長期滞在したとき、いとこ(私より年上)が持っていた『数のふしぎ 形のなぞ』という小学生向けの本をなにげなく読んで、とりこになってしまいました。

たとえば、1メートルの長さって、どうやって決めたと思います? 絶対的な基準を作るため、地球の4分の1の1万分の1の千分の1を基準としようと、決まりましたが、そんなもん、だれが測るんです? 人生かけて、測った人がいるんです。現在の測量技術をもってしても、ほぼ変わらないほど正確な測量だったそうです。なんとロマンじゃないですか。

アルキメデスが偽の王冠を見抜いた話は有名です。知っていますか? 王冠に混ぜものがしてないかどうか、見抜けと命じられたアルキメデスさん、困ってしまいました。アルキメデスが風呂に入ったら、湯が湯船からあふれました。アルキメデスは湯船から飛び出し、裸で走っていきました。アルキメデスは金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、金塊と王冠のそれぞれを、ぎりぎりまで水を張った容器に入れました。王冠を入れると、金塊を入れたときよりも多くの水があふれ、金細工師の不正が明らかになりました。不正は科学に勝てません。

地球をぐるりとロープで巻いて、そのロープを10メートル長くして、均等に地球とのすきまを開けたら、どのくらいになると思いますか? 普通に思うと、1ミリもないはずです。ところがどっこいしょ。
地球1周を4000万メートルとすれば、
半径は、40000000÷(2×3.14)=6369426.75m
ロープを10メートル長くすると
半径は、40000010÷(2×3.14)=6369428.34m
差は1.59m
なんと、人間の背丈ほどもあります。そんな、お馬鹿さんな!!と思って、自分で計算してみても、そうなりました。もいっかい計算しても、そうなります。信じがたくて、もいっかい計算しましたが、やはりそうなります。一晩寝たら変わるかも知れないと思いましたが、変わりません。

他にも、いろいろネタはありましたが、極めつけは、九去法です。3年生ですから、桁数の多いかけ算を修得中です。ところが、計算間違いをよくします。
293×58=16994
この答えは合っていますか? 簡単な検算方法があります。
2+9+3=14 1+4=5
5+8=13 1+3=4
5×4=20 2+0=2
左辺を整理すると、2です。
右辺を整理すると、1+6+9+9+4=29 2+9=11 1+1=2
左辺と右辺は、2で一致します。だから、この答えは正しい。
まるで魔法のような検算法です。もっとも、高校レベルの数学で、容易に証明可能ですが、小学3年生には、魔術のように見えます。私は夢中になって、魔術を修得しました。それ以後、かけ算をミスしたことは、ほとんどありません。「全くない」とならない理由は、横着して九去法を適用しなかった場合と、九去法が必要条件であって十分条件でないことによります。

九去法をマスターするには、逆に暗算が磨かれます。が、こんな魔術を独り占めしていては罪だと思い、同級生に教えました。何人か、興味を持ったようですが、だれも、必死に修得しようとはしませんでした。それ以後、九去法は私の人生で最大の魔術でありつづけ、家庭教師等で後世に伝受しようとしても、だれも修得しようとはしませんでした。小学3年生だった私は、担任の先生に魔術を身につけたことを報告しました。そのとき、先生が言った言葉は、生涯忘れないでしょう。トラウマとなっています。
「それは、大学生が勉強する内容だから、小学生のあなたはしない方がいい」

おーまいがーっ!!

私は先生に言ってもだめだと悟り、九去法を自分だけの魔術としてはぐくんでいきました。

ゆとり教育がなぜ学校現場で成功しなかったかが理解されます。ゆとり教育は、九去法のような発展を企図していました。しかし、じゃじゃ馬のような「発展」は、学校教育というシステムには相容れません。

学力低下とは、日本人の思考能力、論理性が世界から見て、低下していることを言います。低下して当然ですね。

では、20-30年前には、日本の教育が世界最高峰だった理由は何でしょうか? 世界が、グローバルではなく、おおむね、自国で完結していたからでしょう。日本の教育は、内弁慶でしょう。それが悪いと断罪はできませんが、少なくとも現時点では課題でしょう。それを克服しようと、日本人はより一層、内弁慶へ向かっていると、私には見えます。

論理と屁理屈は、似て非なるものです。阿吽の呼吸で意思疎通できるのは、仲間内だけです。異文化を理解し合うには、共通のプラットフォームが必要です。つまり、いかなる場所、いかなる時代、いかなる精神基盤にあっても、同等の理解が可能となるプラットフォーム、それは、ロジックでしょう。

島国である日本は、大陸からの異文化接受を歴史的に行ってきたとしても、意思疎通をはかるべくロジックを育ててはきませんでした。日本の浮沈は、ロジックの養成次第ではないかと、私は見ています。

学校教育では、ロジックを養成しがたいです。もっとも、今後、ドラスティックに学校教育が変容すれば、別ですが。いや、時代は、日本の古式ゆかしい学校教育にドラスティックな変容を強いらざるを得ないでしょう。申し訳ありませんが、わが家は一歩先を行かせていただきます。「申し訳ありません」と言ってしまうあたりが、古式ゆかしい日本人のDNAがなせるわざです。

ゴン太は、親の想定を上回る世界へ踏み出したようです。親は、怖じ気づいて、子どもを抑え込んではなりません。親の価値観は、過去のものです。未来をこそ、見なければなりません。

学校が是か非かなど、取るにたりない問題です。世界がどちらへシフトしているか。その中で、わが家がどういうポジションを取るべきか。

世界を見てこそ、我がやの取るべき道が、見えてきます。つまり、世界を見てこそ、ローカルの取るべき道が見えるのではないかと思います。

 怒濤のような1カ月が過ぎ去り、まるでママが帰ってきたことが玉手箱を開けたかのごとき不思議な感覚で、果てしない年月が経過したようでした。長い年月が経過したなら、子どもたちはそれなりに成長していて当然ですし、そうあってもらわねばパパはもたないので、それは当然だったのに、ママは、子どもたちの成長に驚愕していました。

 ママが抱いた感想は
・リリコが関西弁を流暢にしゃべるようになっていた。
 決まり文句「パパはリリコのこと嫌いなのか・・」
 「きもちわるいことすんなー」「あっちいけー」「ダメ~!!」とか、、
  みかけにあわないセリフを平気でするので笑える。
・チャコがパパを譲ってリリコがパパを独占するようになっていた
・チャコとリリコでおままごとができるようになっていた
・ゴン太がママに気を遣うようになった
・ゴン太がパパ代わりができるようになった
・ゴン太とチャコが赤ちゃんの子守をしたがる
・チャコがトランプ(ババ抜き、七並べ)ができるようになった
・チャコが足し算に興味を示すようになっていた・・・・

 ところが、私からすると、「あんた、いったいいつの時代に生きてまんねん?」って感じで、経過した時間感覚に著しいズレがありました。

 とはいえ、ゴン太の勉強なんか、どこかへ飛んで行ってしまっていることはさすがのママにもわかります。あるとき、ママが、ゴン太の話を聞いていて、「なんでそんなことがわかるの!!」って叫びました。私も注意してみると、図書室で借りてきた鉄腕アトムのマンガを読破して、ストーリーを忠実に理解し語っています。問題なのは、鉄腕アトムのマンガは、小学校中学年程度の漢字がルビなしでいっぱい出ていることです。マンガの絵だけ追っているとは考えられない理解をゴン太はしています。何も勉強なんかしていないのに、3-4年生の漢字が読めて、複雑なストーリーを理解できるのでしょうか?

 算数も変です。何も勉強していないくせに、チャコと計算ごっこをして遊んでいます。

 私はそのとき、すっかり忘れていた事実をガツーンと思い出しました。勉強とは、教えてもらうことではありません。自ら学ぶことです。

 ホームスクーリングの第一フェーズにおいて、ゴン太に教えることは避けてきました。漢字でも算数でも、まずは自分で考え、試行錯誤してみる。よほど試行錯誤してから、ヒントを与える。最初から答えを与えることはしない。学校では、答えを教えることから入ります。教えた答えを覚えているかテストします。

 まるでチンパンジーのアイちゃんみたいですね。動物と人間の決定的な差はなんでしょうか? 私は「未知への挑戦」だと思っています。人間は、知らないものを考えたり想像したり研究したりします。既知を与えるだけの教育は、動物のしつけと変わりません。

 そんなことは、私にはわかりすぎるほどわかっていましたし、それへの危機感からホームスクーリングを選択したはずでしたが、「未知への挑戦」を子どもに求めることが学校教育と大差ないことに薄々気づきつつもどうにもできないでいました。

 「未知への挑戦」を子どもに求めることは、子どもにとっては未知ですが親にとっては既知です。予定どおりにことを進めようという、親のエゴがあります。4月13日、積水化学工業のモデルフォレスト時に、予定がずれ込んで、待機が続いたときに、モデルフォレスト指導員さんが、「森の仕事はこんなもんや。予定どおりに行く方がおかしい。予定がずれてふつうや。こんでええねん」とおっしゃっていました。まさに、そうなんですよ。予定どおりに進めようとするからこそ、逆へ進んでしまう。失敗も変更も想定外も、ぜんぶ想定内なのだと考えれば、きわめて親は楽だし、子どもも楽です。

 勉強しなさいというのはよくないが、勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない。かつて、サマーヒルを批判した「常識人」たちと同じ論理を私も踏襲していましたが、それは間違いです。「勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない」のは、大人が勉強することを予定しているからなのです。

 ママの入院中の1カ月、ホームスクーリングは崩壊状態でしたが、意に反して、理想的なホームスクーリングでもありました。なぜなら、親は子どもたちに対して何も予定していなかったからです。子どもたちは、ごく短期間に、びっくりするほど「学力」を伸ばしていました。

 これはまさに、親にとって未知のできごとです。しかしながら、親である私の、子どもだった頃の体験を振り返れば、理解できないわけでもありません。子どもを大事に思うおとなたちが、子どもの可能性を阻害している部分もあります。それは、親や学校を否定する主張ではありません。子どもを大事に思う気持ちは、何をおいても尊いものです。が、何事にも両面があるように、尊い親心にも陰があります。子どもを大事に思うがゆえに、大事に思うほど、子どもをスポイルしてしまう。諸刃の剣でしょうか。それは、どうにもできないことなのでしょうか。宿命であると断じてしまうのはたやすいですが、そうではないと、信じたい。それこそが、未知への挑戦でしょう。

 ホームスクーリングは、いよいよ第二フェーズへ転じます。

2010年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

Pages

  • pages
  • private

アーカイブ

すべて