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    <title>生涯学習的ホームスクーリング</title>
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    <title>1年のまとめ（6）算数は最果てもなく楽しい</title>
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    <published>2008-06-21T15:23:09Z</published>
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    <summary>私が小学校3年生のころ、夏休み、親戚の家に長期滞在したとき、いとこ（私より年上）が持っていた『数のふしぎ　形のなぞ』という小学生向けの本をなにげなく読んで、とりこになってしまいました。たとえば、1メートルの長さって、どうやって決めたと思います？　絶対的な基準を作るため、地球の4分の1の1万分の1の千分の1を基準としようと、決まりましたが、そんなもん、だれが測るんです？　人生かけて、測った人がいるんです。現在の測量技術をもってしても、ほぼ変わらないほど正確な測量だったそうです。なんとロマンじゃないですか。アルキメデスが偽の王冠を見抜いた話は有名です。知っていますか？　王冠に混ぜものがしてないかど...</summary>
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        <![CDATA[私が小学校3年生のころ、夏休み、親戚の家に長期滞在したとき、いとこ（私より年上）が持っていた『数のふしぎ　形のなぞ』という小学生向けの本をなにげなく読んで、とりこになってしまいました。<br /><br />たとえば、1メートルの長さって、どうやって決めたと思います？　絶対的な基準を作るため、地球の4分の1の1万分の1の千分の1を基準としようと、決まりましたが、そんなもん、だれが測るんです？　人生かけて、測った人がいるんです。現在の測量技術をもってしても、ほぼ変わらないほど正確な測量だったそうです。なんとロマンじゃないですか。<br /><br />アルキメデスが偽の王冠を見抜いた話は有名です。知っていますか？　王冠に混ぜものがしてないかどうか、見抜けと命じられたアルキメデスさん、困ってしまいました。アルキメデスが風呂に入ったら、湯が湯船からあふれました。アルキメデスは湯船から飛び出し、裸で走っていきました。アルキメデスは金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、金塊と王冠のそれぞれを、ぎりぎりまで水を張った容器に入れました。王冠を入れると、金塊を入れたときよりも多くの水があふれ、金細工師の不正が明らかになりました。不正は科学に勝てません。<br /><br />地球をぐるりとロープで巻いて、そのロープを10メートル長くして、均等に地球とのすきまを開けたら、どのくらいになると思いますか？　普通に思うと、1ミリもないはずです。ところがどっこいしょ。<br />地球1周を4000万メートルとすれば、<br />半径は、40000000÷（2×3.14）＝6369426.75m<br />ロープを10メートル長くすると<br />半径は、40000010÷（2×3.14）＝6369428.34m<br />差は1.59m<br />なんと、人間の背丈ほどもあります。そんな、お馬鹿さんな！！と思って、自分で計算してみても、そうなりました。もいっかい計算しても、そうなります。信じがたくて、もいっかい計算しましたが、やはりそうなります。一晩寝たら変わるかも知れないと思いましたが、変わりません。<br /><br />他にも、いろいろネタはありましたが、極めつけは、九去法です。3年生ですから、桁数の多いかけ算を修得中です。ところが、計算間違いをよくします。<br />293×58＝16994<br />この答えは合っていますか？　簡単な検算方法があります。<br />2+9+3＝14　1+4＝5<br />5+8＝13　1+3＝4<br />5×4＝20　2+0＝2<br />左辺を整理すると、2です。<br />右辺を整理すると、1+6+9+9+4＝29　2+9＝11　1+1＝2<br />左辺と右辺は、2で一致します。だから、この答えは正しい。<br />まるで魔法のような検算法です。もっとも、高校レベルの数学で、容易に証明可能ですが、小学3年生には、魔術のように見えます。私は夢中になって、魔術を修得しました。それ以後、かけ算をミスしたことは、ほとんどありません。「全くない」とならない理由は、横着して九去法を適用しなかった場合と、九去法が必要条件であって十分条件でないことによります。<br /><br />九去法をマスターするには、逆に暗算が磨かれます。が、こんな魔術を独り占めしていては罪だと思い、同級生に教えました。何人か、興味を持ったようですが、だれも、必死に修得しようとはしませんでした。それ以後、九去法は私の人生で最大の魔術でありつづけ、家庭教師等で後世に伝受しようとしても、だれも修得しようとはしませんでした。小学3年生だった私は、担任の先生に魔術を身につけたことを報告しました。そのとき、先生が言った言葉は、生涯忘れないでしょう。トラウマとなっています。<br />「それは、大学生が勉強する内容だから、小学生のあなたはしない方がいい」<br /><br />おーまいがーっ！！<br /><br />私は先生に言ってもだめだと悟り、九去法を自分だけの魔術としてはぐくんでいきました。<br /><br />ゆとり教育がなぜ学校現場で成功しなかったかが理解されます。ゆとり教育は、九去法のような発展を企図していました。しかし、じゃじゃ馬のような「発展」は、学校教育というシステムには相容れません。<br /><br />学力低下とは、日本人の思考能力、論理性が世界から見て、低下していることを言います。低下して当然ですね。<br /><br />では、20-30年前には、日本の教育が世界最高峰だった理由は何でしょうか？　世界が、グローバルではなく、おおむね、自国で完結していたからでしょう。日本の教育は、内弁慶でしょう。それが悪いと断罪はできませんが、少なくとも現時点では課題でしょう。それを克服しようと、日本人はより一層、内弁慶へ向かっていると、私には見えます。<br /><br />論理と屁理屈は、似て非なるものです。阿吽の呼吸で意思疎通できるのは、仲間内だけです。異文化を理解し合うには、共通のプラットフォームが必要です。つまり、いかなる場所、いかなる時代、いかなる精神基盤にあっても、同等の理解が可能となるプラットフォーム、それは、ロジックでしょう。<br /><br />島国である日本は、大陸からの異文化接受を歴史的に行ってきたとしても、意思疎通をはかるべくロジックを育ててはきませんでした。日本の浮沈は、ロジックの養成次第ではないかと、私は見ています。<br /><br />学校教育では、ロジックを養成しがたいです。もっとも、今後、ドラスティックに学校教育が変容すれば、別ですが。いや、時代は、日本の古式ゆかしい学校教育にドラスティックな変容を強いらざるを得ないでしょう。申し訳ありませんが、わが家は一歩先を行かせていただきます。「申し訳ありません」と言ってしまうあたりが、古式ゆかしい日本人のDNAがなせるわざです。<br /><br />ゴン太は、親の想定を上回る世界へ踏み出したようです。親は、怖じ気づいて、子どもを抑え込んではなりません。親の価値観は、過去のものです。未来をこそ、見なければなりません。<br /><br />学校が是か非かなど、取るにたりない問題です。世界がどちらへシフトしているか。その中で、わが家がどういうポジションを取るべきか。<br /><br />世界を見てこそ、我がやの取るべき道が、見えてきます。つまり、世界を見てこそ、ローカルの取るべき道が見えるのではないかと思います。<br /><br />]]>
        
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    <title>1年のまとめ（5）予定どおりいかないのがあたりまえ</title>
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    <published>2008-06-12T18:18:07Z</published>
    <updated>2008-06-13T18:20:25Z</updated>

    <summary>　怒濤のような1カ月が過ぎ去り、まるでママが帰ってきたことが玉手箱を開けたかのごとき不思議な感覚で、果てしない年月が経過したようでした。長い年月が経過したなら、子どもたちはそれなりに成長していて当然ですし、そうあってもらわねばパパはもたないので、それは当然だったのに、ママは、子どもたちの成長に驚愕していました。　ママが抱いた感想は・リリコが関西弁を流暢にしゃべるようになっていた。　決まり文句「パパはリリコのこと嫌いなのか・・」　「きもちわるいことすんなー」「あっちいけー」「ダメ～！！」とか、、　　みかけにあわないセリフを平気でするので笑える。・チャコがパパを譲ってリリコがパパを独占するようにな...</summary>
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        <![CDATA[　怒濤のような1カ月が過ぎ去り、まるでママが帰ってきたことが玉手箱を開けたかのごとき不思議な感覚で、果てしない年月が経過したようでした。長い年月が経過したなら、子どもたちはそれなりに成長していて当然ですし、そうあってもらわねばパパはもたないので、それは当然だったのに、ママは、子どもたちの成長に驚愕していました。<br /><br />　ママが抱いた感想は<br />・リリコが関西弁を流暢にしゃべるようになっていた。<br />　決まり文句「パパはリリコのこと嫌いなのか・・」<br />　「きもちわるいことすんなー」「あっちいけー」「ダメ～！！」とか、、<br />　　みかけにあわないセリフを平気でするので笑える。<br />・チャコがパパを譲ってリリコがパパを独占するようになっていた<br />・チャコとリリコでおままごとができるようになっていた<br />・ゴン太がママに気を遣うようになった<br />・ゴン太がパパ代わりができるようになった<br />・ゴン太とチャコが赤ちゃんの子守をしたがる<br />・チャコがトランプ（ババ抜き、七並べ）ができるようになった<br />・チャコが足し算に興味を示すようになっていた・・・・<br /><br />　ところが、私からすると、「あんた、いったいいつの時代に生きてまんねん？」って感じで、経過した時間感覚に著しいズレがありました。<br /><br />　とはいえ、ゴン太の勉強なんか、どこかへ飛んで行ってしまっていることはさすがのママにもわかります。あるとき、ママが、ゴン太の話を聞いていて、「なんでそんなことがわかるの！！」って叫びました。私も注意してみると、図書室で借りてきた鉄腕アトムのマンガを読破して、ストーリーを忠実に理解し語っています。問題なのは、鉄腕アトムのマンガは、小学校中学年程度の漢字がルビなしでいっぱい出ていることです。マンガの絵だけ追っているとは考えられない理解をゴン太はしています。何も勉強なんかしていないのに、3-4年生の漢字が読めて、複雑なストーリーを理解できるのでしょうか？<br /><br />　算数も変です。何も勉強していないくせに、チャコと計算ごっこをして遊んでいます。<br /><br />　私はそのとき、すっかり忘れていた事実をガツーンと思い出しました。勉強とは、教えてもらうことではありません。自ら学ぶことです。<br /><br />　ホームスクーリングの第一フェーズにおいて、ゴン太に教えることは避けてきました。漢字でも算数でも、まずは自分で考え、試行錯誤してみる。よほど試行錯誤してから、ヒントを与える。最初から答えを与えることはしない。学校では、答えを教えることから入ります。教えた答えを覚えているかテストします。<br /><br />　まるでチンパンジーのアイちゃんみたいですね。動物と人間の決定的な差はなんでしょうか？　私は「未知への挑戦」だと思っています。人間は、知らないものを考えたり想像したり研究したりします。既知を与えるだけの教育は、動物のしつけと変わりません。<br /><br />　そんなことは、私にはわかりすぎるほどわかっていましたし、それへの危機感からホームスクーリングを選択したはずでしたが、「未知への挑戦」を子どもに求めることが学校教育と大差ないことに薄々気づきつつもどうにもできないでいました。<br /><br />　「未知への挑戦」を子どもに求めることは、子どもにとっては未知ですが親にとっては既知です。予定どおりにことを進めようという、親のエゴがあります。4月13日、積水化学工業のモデルフォレスト時に、予定がずれ込んで、待機が続いたときに、モデルフォレスト指導員さんが、「森の仕事はこんなもんや。予定どおりに行く方がおかしい。予定がずれてふつうや。こんでええねん」とおっしゃっていました。まさに、そうなんですよ。予定どおりに進めようとするからこそ、逆へ進んでしまう。失敗も変更も想定外も、ぜんぶ想定内なのだと考えれば、きわめて親は楽だし、子どもも楽です。<br /><br />　勉強しなさいというのはよくないが、勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない。かつて、サマーヒルを批判した「常識人」たちと同じ論理を私も踏襲していましたが、それは間違いです。「勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない」のは、大人が勉強することを予定しているからなのです。<br /><br />　ママの入院中の1カ月、ホームスクーリングは崩壊状態でしたが、意に反して、理想的なホームスクーリングでもありました。なぜなら、親は子どもたちに対して何も予定していなかったからです。子どもたちは、ごく短期間に、びっくりするほど「学力」を伸ばしていました。<br /><br />　これはまさに、親にとって未知のできごとです。しかしながら、親である私の、子どもだった頃の体験を振り返れば、理解できないわけでもありません。子どもを大事に思うおとなたちが、子どもの可能性を阻害している部分もあります。それは、親や学校を否定する主張ではありません。子どもを大事に思う気持ちは、何をおいても尊いものです。が、何事にも両面があるように、尊い親心にも陰があります。子どもを大事に思うがゆえに、大事に思うほど、子どもをスポイルしてしまう。諸刃の剣でしょうか。それは、どうにもできないことなのでしょうか。宿命であると断じてしまうのはたやすいですが、そうではないと、信じたい。それこそが、未知への挑戦でしょう。<br /><br />　ホームスクーリングは、いよいよ第二フェーズへ転じます。<br /><br /> ]]>
        
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    <title>1年のまとめ（4）赤ちゃん誕生！！</title>
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    <published>2008-04-26T18:18:51Z</published>
    <updated>2008-04-27T18:29:13Z</updated>

    <summary>さてさて、2歳、4歳、7歳を抱えて、突然の父子家庭。入院した日は病院たらい回しの刑に合い、遠方に飛ばされる寸前で○○○病院へもぐりこむことに成功し、2つ目の病院で医療崩壊の現状を切実と語られ、リリコ出産時とはまるで状況が変わってしまったことを思い知り、それでもなんとか奇跡的に医療難民を避けられて、ほっとしましたが、「明日からどうなるんやろ・・・」と不安がよぎったりもしましたが、不安に駆られていられるほど悠長な状況でもありません。深夜に2歳、4歳、7歳を連れて帰ったパパは、さっそく明日のご飯をセットして、子どもたちの弁当の確認をして、布団を敷いて、2歳、4歳を着替えさせ、2歳のおむつを替え、寝た...</summary>
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        <![CDATA[さてさて、2歳、4歳、7歳を抱えて、突然の父子家庭。入院した日は病院たらい回しの刑に合い、遠方に飛ばされる寸前で○○○病院へもぐりこむことに成功し、2つ目の病院で医療崩壊の現状を切実と語られ、リリコ出産時とはまるで状況が変わってしまったことを思い知り、それでもなんとか奇跡的に医療難民を避けられて、ほっとしましたが、「明日からどうなるんやろ・・・」と不安がよぎったりもしましたが、不安に駆られていられるほど悠長な状況でもありません。<br /><br />深夜に2歳、4歳、7歳を連れて帰ったパパは、さっそく明日のご飯をセットして、子どもたちの弁当の確認をして、布団を敷いて、2歳、4歳を着替えさせ、2歳のおむつを替え、寝たと思ったらもう朝で、子どもたちをたたき起こして着替えさせ、おむつを替えて、洗濯して、布団をたたみ、とりいれた昨日の洗濯物（山の上は寒いので、冬季には洗濯は室内干しです）を、子どもたちにたたませて、朝食つくって、昼食作って、弁当詰めて、さあ、子連れ出勤です。子どもたちは別室にいさせましたが、なかなかおとなしくもせず、室内で騒いだりケンカしたり、外へ出て遊んだり。なかなか仕事になりません。<br /><br />夜帰ると、子どもたちを風呂に入れて、乾きかねる洗濯物を乾燥機にかけたりストーブであぶったりし、布団を敷いて、台所を片づけて、着替えさせて、本を読んで寝させて・・・<br /><br />2日目からは、職場で子どもたちも昼食、夕食をお世話になることとなり、少し楽にはなりましたが。<br /><br />とうぜんながら、勉強などどこかへ飛んでいます。日々、生きることが最優先です。勉強みたいなもん、ほっておけ！！という感じです。ママがいると、子どもたちはなんとなく甘えて、できることもママにしてもらいがちですが、父子家庭でそれをやられると、パパはどないもなりません。子どもたちもよくわかっていて、というか、わからざるを得ない状況で、2歳児は着替えもおむつも風呂も自分ではできないので、4歳、7歳は自分でしろよな、って暗黙の圧力があり、パパが号令をかけると、子どもたちはさっと行動するようになっていきました。<br /><br />「勉強」なんていう言葉はどこにもありません。生きることと関係ないものは棚上げです。え？　勉強は生きることと関係ない？　そうなのかもしれません。<br /><br />最初の週末、12月8日（土）、おむつを買って、ママの身のまわり品を買って、病院へ行き、洗濯物を受けとって、下着などを買い足して、パパが倒れては大変なのでインフルエンザの予防接種をして、子どもたちの本やあれこれ買って、夕食は外食で、家に帰るとパパはダウン。知らんまに子どもたちが布団敷いて、助け合いながら着替えて寝ていました。<br /><br />翌日、朝起きて、ママの洗濯をして乾燥機にかけたけどなかなか乾かず、ストーブであぶったりなんなりして、もちろん子どもたちにご飯食べさせて、夕方病院へ。子どもたちはママと会えるのがうれしい様子。夜遅く帰ってあれこれ用事して寝たら、またまた朝起きてごはんして洗濯して子連れ出勤。<br /><br />子連れ出勤も、1週間が限度でした。12月11日（火）、夜、大阪の私の親へ頼み込んで、ばあばに来てもらうこととしました。夜9時から子ども3人連れて大阪へ走り、ばあばを連れて、2時半帰宅。<br /><br />12日からは、子どもたちはばあばと家で過ごします。ご飯と洗濯は私の手を離れて楽になりましたが、子育ての全部をばあばにいきなりまかせることもできず、夜帰宅してから、子どもたちがパパに飛びついてくるのを相手しつつ、おむつを替えたり、風呂に入れたり、ケンカの仲裁をしたり、本を読んだり・・・<br /><br />金曜日の夜、大阪へ走り、ばあばを届けてそのまま深夜に帰り、土曜日、病院へ行って、洗濯物を受け取り、日曜日に仕上げて病院へ持っていき、そのまま大阪へ行って、深夜にばあばを連れてくる、というサイクルができました。<br /><br />ところで、わが家の子たちは、サンタクロースを信じています。今までは、ママサンタクロースが、そっと通販でプレゼントを買って、12月24日夜、枕元に置いておいたのですが、今年はどうやら、そういう演出ができそうにありません。<br /><br />「今年はママが大変なのでサンタさんに遠慮してもらった」って言おうか、とナナと話したりもしましたが、どうもそれは大人の勝手です。<br /><br />ゴン太にそっと打ち明けました。<br />「サンタクロースはな、じつはな、パパとママやねん」<br />ゴン太は、なかばわかっていたようでもあり、チャコとリリコにサンタクロースの正体を伏せて、協力を求めると、ゴン太は快く承諾。大阪へばあばを迎えに行ったついでに、パパが行方不明となってトイザらスでプレゼントを買って、車の下に隠しました。<br /><br />12月24日（月、振替休日）には、ナナの側のばあばが埼玉から来てくれて、ばあばチェンジです。25日朝、子どもたちが目覚めると、ちゃんとサンタさんが来てくれていました。子どもたちは無邪気に大喜び。この顔が宝なのよね。これがあるからこそ、どんな試練だって、耐えられる・・・<br /><br />29日（土）、病院へ行き、主治医と話しましたが、逆子が直らないため退院はできず、このまま病院で正月を過ごすこととなります。1月7日で37週に入り、出産可能となります。4人目なので自然分娩も可能だろうが、逆子の場合、いっぱい機械をつけて万全の体制をとらねばならないこと、帝王切開の方が無難であることを説明され、不自然な自然分娩にこだわる理由はなく、とにかく母子の安全が第一なので、切っちゃってくださいと、ナナも私も迷わず希望しました。<br /><br />ただ、主治医は、37週に入っても、できるだけ長くお腹にいた方がいいとおっしゃいましたが、予定日は1月28日ですし、3週間がこれほどまでに過酷だったのにこの先1カ月も持ちこたえられるだろうかと、私は呆然としました。<br /><br />29日、病院から出て、そのままばあばを駅へ送り、埼玉へ帰っていただきました。さあ、またまた父子家庭の再来です。（週末のたびに父子家庭でしたが）<br /><br />大掃除？　そんなもの、今年はおまへん。わが家に正月が来るのは赤ちゃんが無事生まれてからです。年賀状も手をつけていません。赤ちゃんが生まれてから、考えます。<br /><br />1月1日は大阪へ行き、私の両親と対面しました。そのすぐそばにトイザらスがあり、ゴン太とチャコはお年玉を使って自分でおもちゃを買いたがり、金額の範囲内で選ばせ、さらに福引きをしたいというので、500円でそれぞれさせると、チャコが1等賞！！！！！　25品ほど入った、チャコより大きな袋を受け取りました。縁起がいいのか、運を使い果たしたのか・・・<br /><br />1日夜、病院へ行くと、さっそくママへ報告。<br /><br />パパはだいぶと疲れがたまってきて、2日は頭がガンガンして寝込みました。そうはいっても、ご飯、おむつ、洗濯はこなします。3日、病院へ。ママとお腹の赤ちゃんが第一なのは当然として、それでもここでパパが何事かあるとどうにもならないので、できるだけ早くだしてもらいたいと私はとうとう根を上げました。<br /><br />ナナも心配を募らせていましたが、どうにもできません。<br /><br />それがお腹の赤ちゃんに聞こえたのか、4日にはお腹が張り始めました。主治医は、7日に帝王切開の予定を決めようと言っていましたが、5日に前倒しとなりました。<br /><br />5日の午前3時ちょうどに、病院から電話があり、生まれそうだとのことです。帝王切開かどうか、私に判断を求めましたが、帝王切開が間に合わないほどお産が進んでいるようで、「どのようなものであれ病院の最善の選択に同意します」と答えました。<br /><br />リリコの出産時に徹夜で立ち会って、帰りに新車をぶつけた苦い過去があるので、今回は自重していったん寝て、6時ごろ起きて、子どもたちをたたき起こし、すぐに家を出て、病院へ向かいました。<br /><br />生まれたかどうかもわかっていませんでしたが、途中でナナに電話すると、無事に生まれたとのこと。8時に病院へ着き、元気な赤ちゃんを確認しました。帝王切開を予定していたのに、帝王切開手術の準備が間に合わないほどするすると出てきて、ほとんど医師が手を添えることなく、赤ちゃんが自力で、足から、すぽん！と参上したそうです。パパを困らせてはならんと思ったのでしょうか。4人目は大ハプニングでありながら、最も安産でした。<br /><br />上3人は、立合出産でした。ゴン太は、チャコとリリコの出産を見ています。チャコはリリコの出産を見ています。リリコの出産時は、すべてをビデオ撮影しています。今回は、だれも出産を見ていません。それでも、赤ちゃんの誕生がいかに尊いものであるか、子どもたちもひしひし感じたと思います。<br /><br />赤ちゃんは逆子であるのにこれ以上ないほど安全な生まれ方をしたし、ママも元気だし、ゴン太もチャコもリリコも元気に赤ちゃんの誕生を祝っているし、パパもなんとか持ちこたえたし、すべてが一番いい結果でした。<br /><br />ゴン太の勉強？　野暮なことは言いなさんな。命を感じる以上の勉強なんて、ありますか？　千尋の谷とはいかなくても一尋の谷から突き落とすごとき自立ほど、優れた勉強はありますか？<br /><br />父親として、子どもたちには、感謝の言葉しかありません。ゴン太とチャコとリリコには、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、ありがとうと言いました。そして、父親として至らぬところが多々あったことを、詫びました。そんな父親でも、子どもたちが力を合わせてカバーしてくれたことをあらためて思い、子どもたち1人1人を抱きしめました。<br /><br />翌6日には、埼玉からじいじとばあばが来て、大阪からもじいじとばあばが来て、病院でご対面。双方の親は高齢にかかり、遠方でもあり、なかなか顔を合わせることが難しくなってきましたが、いい機会です。わが家の子たちは、どちらのじいじとばあばにも同じようになつきます。急に入れ替わっても平然としています。<br /><br />わが家はめでたいムード一色でしたが、7日（月）から、私は仕事へ戻ります。9日（水）、昼間時間をもらって、退院です。37週に2日足りなかったため、微妙に早産です。大人の都合で出てきてもらったようなものですが、生命とは、微妙なものです。早産は、おっぱいを吸う力が弱いことにつながります。トウコは、出産後の体重回復が芳しくなく、赤ちゃんを残して母だけ退院という可能性もありました。そうさせてはなるものかと、ナナが母乳を絞ってほ乳瓶で飲ませ、基準体重をクリア。母の愛は強し。<br /><br />あ、テーマは、ホームスクーリングなのですが、どっか行っちゃってますね。どこ行っちゃったんだろう？　次回に探すことにします。<br /><br /> ]]>
        
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    <title>1年目のまとめ（3）矛盾だらけの第1フェーズ</title>
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    <published>2008-04-24T17:04:22Z</published>
    <updated>2008-04-24T17:05:39Z</updated>

    <summary>学校に行かせるのも親のエゴといえばエゴだし、学校に行かせないのも親のエゴといえばエゴだし、子育て全般にも言えることだけど、子どものためにいいことをしている・・と勘違いするのではなく、何をやっても親のエゴなんだ・・ということを自覚して子どもに接しないと歯止めがかからなくなると思います。親が子どものためと思っていいことをしているつもりでも必ずしもそれがその子にとって必要なこととは限らない。逆に、子どもにとっては一見過酷な状況に見えたとしてもそれがその子の将来にとってはプラスになることもあるかもしれない。。自分が子どものために「いいはず」だと思っていても子どもから少しでも『違う・あわない』という反応...</summary>
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        <![CDATA[学校に行かせるのも親のエゴといえばエゴだし、学校に行かせないのも親のエゴといえばエゴだし、子育て全般にも言えることだけど、子どものためにいいことをしている・・と勘違いするのではなく、何をやっても親のエゴなんだ・・ということを自覚して子どもに接しないと歯止めがかからなくなると思います。<br /><br />親が子どものためと思っていいことをしているつもりでも必ずしもそれがその子にとって必要なこととは限らない。逆に、子どもにとっては一見過酷な状況に見えたとしてもそれがその子の将来にとってはプラスになることもあるかもしれない。。<br /><br />自分が子どものために「いいはず」だと思っていても子どもから少しでも『違う・あわない』という反応があるのであれば、軌道修正するような余裕は常に持っていたいと夫婦でいつも話しています。<br /><br />ねじりはちまきで徹夜を続けて勉強しないと東大や京大に合格しないと思っている人が多いと思いますが、私は現実にはそういう人を知りません。もしそのような人が実際にいるなら、特殊な能力をもっていると思います。なぜなら、そのような勉強の仕方は著しく非効率であり、非効率な方法で結果を出すというなら、きっとスーパーマンに違いありません。<br /><br />仕事にしろ、勉強にしろ、労働量を増やすことで、ある程度まで生産力は向上します。しかし、「ある程度」を超えれば、労働量を増やすほど生産力が低下していきます。しなければいけないが、しすぎてもいけない。では、制限なき向上をしていくには、何が必要なのか。モチベーションでしょう。たとえば「めざせ東大!!」などという張り紙は、モチベーションではありません。それは、自らを追い詰める強迫です。モチベーションとは、それをせずにいられない思い、知らない間に夢中になっている感覚、そういうものを成り立たせている基盤をいうはずです。<br /><br />教育は、強迫であるより、モチベーションである方が、望ましいはずです。<br />強迫は、危機駆動型です。「勉強しないと、落ちこぼれる、取り残される」<br />モチベーションは、希望駆動型です。「なんて楽しいんだろう！　あれ？知らんまに勉強していた」<br />学力を向上させるには、勉強時間を増やしてもしょうがないです。むしろ逆効果でさえあるでしょう。モチベーションこそ、増大させねばなりません。<br /><br />と、私は充分にわかっていましたし、モチベーションの増進が学校教育が苦手とする部分であることも了解していますし、ホームスクーリングにおいて、最も重点を置かねばならないポイントだと考えていました。<br /><br />そこで、ゴン太が1年生になる前後に、多様な図鑑や読み物をたくさんそろえ、どんな興味にもなんらかの手がかりをみいだせるよう、環境整備しました。ゴン太が2歳の頃から、ベネッセの通信講座を毎月購入していましたが、ゴン太の強い希望によって、小学1年生用の「チャレンジ1年生」も購読しました。<br /><br />ただ、「読み書きそろばん」に当たる部分は、スポーツで言うところの基礎体力作りでしょうし、それらは毎日トレーニングを重ねる必要があると、私は考えました。日本の童話を薄くプリンタで印刷して、なぞって書く練習。漢字のドリル。私が表計算ソフトで作成した計算シート。これらを日課としました。強制はいけません。<br />「しなくてもいいけど、したほうがいいよ」と、おかしな理屈でゴン太に接しました。<br />しなくても、怒りません。<br />「今日、勉強した？」<br />「しなかった」<br />「あ、そう」<br />こういう会話がなされる日も多かったです。<br /><br />でも、ゴン太は、しないといけない気がして、無理に勉強することも多く、勉強がいやでいやでたまらないと愚痴るようになっていきました。「いやならしなければいい」と言っても、それがよけいに強迫的に聞こえるようでした。<br /><br />とはいえ、課題を全部こなしたとしても、2時間弱ですし、学校に行くことを思えば、うんと学習時間は短いはずです。計算も漢字も、まずまず身についていきました。<br /><br />だとしても、ゴン太は、いやでいやでしょうがありません。こんなことでは、学校に行っても、多衝動児であるとか、落ち着きがないとか、問題視されそうですし、ゴン太自身、枠にはめられて苦しみつつも持ち前の特性を押し殺していく、ということになりそうです。それが、成長なのだ、と説明されるでしょう。集団生活なのだ、社会性なのだと、説明されるでしょう。<br /><br />出る杭にならねばならないのに、出る杭を育てなければならないのに、出る杭を打ちのめしてしまう。それが美徳なのでしょうね、日本という沈み逝く島国では。<br /><br />そうなっては子どもに未来を与えられないので、そうならないよう、「勉強がイヤだ」という気持ちを尊重して、勉強しなくてもいいよといいながら、それでもトレーニングは大事なのだと醜い矛盾をつのらせていました。<br /><br />いつの間にか、「勉強したらテレビをみてもいいよ」というルールができていて、ゴン太はテレビを見たい日だけ勉強し、見たいテレビのない日は堂々と勉強しないという、動物調教型になっていました。<br /><br />勉強しなさいというのはよくないが、勉強しなくてもいいよと言ったら子どもは勉強なんかしない。かつて、サマーヒルを批判した「常識人」たちと同じ論理を私も踏襲していました。<br /><br />あきらかに、ゴン太にとって勉強はストレスであり、それとつきあうナナにとってもストレスとなっていました。ストレスとストレスの衝突で、ゴン太は勉強の成果をママでなくパパに見せるようになっていきました。<br /><br />そんなこんなで12月4日、突然、ナナが切迫早産＆逆子を理由に入院を指示されました。たいがいのことが想定内である私にとっても、まったくの想定外であり、さてさて、明日からどうしたものやら・・・。7歳、4歳、2歳の子を抱えた父子家庭・・・。<br /><br />絶体絶命のピンチです。するとそこへウルトラマンが・・・来るわけもないし、どないかこないかして、生きていくしかありません。<br />危機駆動型　逆噴射　希望駆動型。<br />第二フェーズの予告をして、今日はおしまい。<br /><br /> ]]>
        
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    <title>1年目のまとめ（2）日本人に根付いた学校神話</title>
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    <published>2008-04-23T16:52:48Z</published>
    <updated>2008-04-25T07:32:31Z</updated>

    <summary>生涯学習のある研究会の懇親会の席で、私は「生涯学習をベースにしたホームスクーリングをやっていこうと思います」というと、1人の先生が、「何年か前に、生涯学習をベースにしたホームスクーリングを調査しようとしたけど、そのような実践例がありませんでした。お宅の取り組みに注目します」とおっしゃいました。「生涯学習をベースにしたホームスクーリング」というのがどのようなものであるかわからないまま私は軽率に言ってしまったのですが、その先生は明確にそれを対象と規定していらっしゃったわけで、それは、漠然とした観念を超えて、なんらかの実態を伴う取り組みとなりうるものであると、了解されます。このことが、ずっと引っかか...</summary>
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        <name>momo7</name>
        
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        <![CDATA[生涯学習のある研究会の懇親会の席で、私は「生涯学習をベースにしたホームスクーリングをやっていこうと思います」というと、1人の先生が、「何年か前に、生涯学習をベースにしたホームスクーリングを調査しようとしたけど、そのような実践例がありませんでした。お宅の取り組みに注目します」とおっしゃいました。<br /><br />「生涯学習をベースにしたホームスクーリング」というのがどのようなものであるかわからないまま私は軽率に言ってしまったのですが、その先生は明確にそれを対象と規定していらっしゃったわけで、それは、漠然とした観念を超えて、なんらかの実態を伴う取り組みとなりうるものであると、了解されます。このことが、ずっと引っかかり続けています。<br /><br />欧米先進国では、ホームスクーリングはほぼ公認されており、ホームスクーリングが禁止されているのは、ヒトラー時代の制度が今なお残っているドイツと、韓国ぐらいなもので、ドイツは、国連からホームスクーリングを認めるよう勧告されています。日本は、禁止も公認もしていない法的未整備状態です。韓国はホームスクーリングが認められていないながらも、ホームスクーリングを処罰した事例もないようです。ただ、韓国には徴兵制もあり、就学義務について、日本より厳しく考えられているようです。ドイツからは、ホームスクーリング希望者が他国へ亡命（といってもいいでしょう）しています。教育の多様性という観点では、日本、ドイツ、韓国がおくれを取っています。ドイツは国連の勧告を受けて制度が変わるのではないかという観測もあり、そうなると、日本がいよいよ取り残されていくこととなります。<br />ところが、日本でも、教育再生会議や中央教育審議会の議事録を拝見すると、文科省レベルではすでにホームスクーリングを公認する流れがあるようにもうかがえ、そう悲観することもないかもしれません。<br /><br />日本の教育で、最も深刻なのは、学校神話ではないかと思っています。10年ほど前、私は不登校の現場（親の会、フリースクール、不登校児の家庭教師、オルタナティブ教育のネットワークなど）を精力的に渡り歩きましたが、どうにも不思議だったのが、「ただ学校に行っていないというだけで、なぜそこまで苦しむのか」ということでした。不登校当事者の苦しみは、壮絶です。不登校児がいる家庭は修羅場となりがちです。苦しむ原因は何なのか。不登校児は、実際に会ってみると、社会性が欠如しているわけでもなく、学力が劣っているわけでもなく、性格や人格に問題があるわけでもない場合がおおいです。なのに、不登校児に対してカウンセリングや心理的治療が施されている。なんか、変です。<br /><br />そのうち、気づいたことがあります。教育は権利であるのに、義務だと思っている人が、あまりに多すぎます。義務教育を「学校へ行かなければいけない」と勘違いしている人があまりに多すぎます。権利を保障することが義務であるのに、義務の内容をはき違えています。そのことが、深刻な悲劇を生んでいます。不登校児の苦しみは、学校神話から生じるのだと言ってもいいでしょう。学校神話から離れるなら、苦しむ原因は消滅します。<br /><br />学校は、ナショナルミニマムとして、国家を維持していく上で不可欠です。しかしそれは、ミニマムであって、オールではありません。共産主義ならいざしらず、民主主義国家において、公教育がオールであることは、国家の発展を妨げます。<br /><br />日本で学力低下が進行しているのは、ゆとり教育が悪いのではなく、制度が時代遅れとなり、硬直化してしまっていることが原因だと私は考えています。<br /><br />しかしこれは、制度だけの問題ではありません。日本人のDNAに深く浸透した学校神話が、あまりにも堅固で、強大です。そのことに私は危機感を抱いています。日本で学校へ行かせることは、現時点では、日本の標準であっても、世界の標準ではないと見ています。日本の国力は、今後ますます衰退していくと予想されますから、日本の標準は、世界的な地位をどんどん後退させていくでしょう。はたして、それが子どもにとって幸せなのか？　親として責任を果たすことになるのか？<br /><br />こう考えて、せめてわが子だけでも沈み逝く船には乗せたくないと、ホームスクーリングを選択した私ですが、私も日本人、そのDNAにしっかり学校神話が刻み込まれていました。<br /><br />我が家のメソッドの第一フェーズは、沈没を察知したネズミが沈み逝く船の甲板を走り回るという、呉越同舟とでも言えそうな状態でした。<br /><br />それはまた次回に。<br /><br /> ]]>
        
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    <title>1年目のまとめ（1）リスクと安全をヘッジするということ</title>
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    <published>2008-04-16T12:32:35Z</published>
    <updated>2008-04-16T17:06:32Z</updated>

    <summary>仙の森の渓谷コースは、ロープで上ったり下りたりするような、難関コースです。昨年秋、ゴン太を連れて行ったときには、そうとう緊張しましたし、走破したときには、感動のあまりゴン太を抱きしめました。なのに、今年3月には、チャコを連れて行くこととなりました。そして、チャコもまた、私が手を添えたとはいえ、走破しました。「あの」アドベンチャーワールドの渓谷に4歳のチャコを連れていったのは、チャコが強く望んだからでもありますが、私自身がリスクを理解したからでもあります。昨年7月31日、信楽小学校の児童が、四万十川で水死するという痛ましい事故がありました。「集まれ野生人」という6泊7日のキャンプ事業ということで...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[<a href="http://souraku.net/forest/" target="blank">仙の森</a>の渓谷コースは、ロープで上ったり下りたりするような、難関コースです。<a href="http://souraku.net/blog/forest/2007/10/7.html" target="blank">昨年秋、ゴン太を連れて行ったとき</a>には、そうとう緊張しましたし、走破したときには、感動のあまりゴン太を抱きしめました。なのに、今年3月には、<a href="http://souraku.net/blog/forest/2008/03/4-1.html" target="blank">チャコを連れて行くこととなりました</a>。そして、チャコもまた、私が手を添えたとはいえ、走破しました。「あの」アドベンチャーワールドの渓谷に4歳のチャコを連れていったのは、チャコが強く望んだからでもありますが、私自身がリスクを理解したからでもあります。<br /><br />昨年7月31日、信楽小学校の児童が、四万十川で水死するという痛ましい事故がありました。「集まれ野生人」という6泊7日のキャンプ事業ということで、なかなかいい取り組みではないかと思うのですが、<a href="http://www.kyoto-np.co.jp/info/jiken/simanto/070801.html" target="blank">現場の写真</a>を見ると、厳しいコメントを発せざるを得ません。<br /><br />この川で子どもを泳がせるなど、言語道断です。甲賀市は、事故を受けて、マニュアルの作成と、指導者の講習受講を定めましたが、ちょっとピントがずれているように思います。自然は変化自在ですし、マニュアルでは対応できません。目の前の状況を、経験と勘で判断し、最適な対応をしなければなりません。必要なことは、指導者が様々な危険を経験することと、危険のケースごとにケーススタディを蓄積することでしょう。<br /><br />渓谷のリスクは、「落ちる」ことです。落ちるリスクは、それ以上落ちない底があります。底を考えることで、リスクヘッジができます。<br /><br />川のリスクは、流れと深さが限度を超えれば無限リスクとなります。事故現場の写真は、川底が見えず、流れもかなりのものです。これを見て、無限のリスクを感じないことが問題です。流れのない場所で子どもがおぼれたとき、助ける方法がないわけではありません（時間制限がありますが）。流れのあるところでおぼれたら、助けに行けません。長時間たってから助けても意味ないのです。スタッフの手の届かないところへ、瞬時に行ってしまうというのが、無限のリスクです。リスクヘッジのしようがありません。<br /><br />自然に対する経験と勘は、数値ではかれるものではなく、資格にしうるものでもありません。目の前の自然が含有するリスクがどのようなものであるかを見極めること、そのリスクを回避、あるいは軽減する方法はどのようなものがあるかということ、そういう感性が、生きる力そのものではないかと思います。<br /><br />さてさて、前置きが長くなりました。<br />3月某日、村教育委員会の次長が、私のいない間（昼間）、わが家へ来ました。<br />「お気持ちに変わりありませんか？」<br />ナナ「今の生活に満足しています。気持ちに変化があったらこちらから相談に行きます」<br />次長「ああ、それは1年前にも聞いていますが、一度も足を運ばないのも・・・」<br /><br />という決まり切った問答をして、そそくさと帰って行かれたそうです。教育委員会は、就学の督促をしないとまずいので、まったく無意味とわかっていても、いちおう、パフォーマンスします。わが家も、無意味なパフォーマンスとわかっていますが、教育委員会を困らせてもしょうがないので、演劇のごとく、てきとうにおつきあいしています。<br /><br />次長が帰ってから、ゴン太が聞いたそうです。<br />ゴン太「今の人、だれ？」<br />ナナ「教育委員会の人だよ。ゴン太に学校へ行かないかって、誘いに来たの。ゴン太は学校へ行きたい？」<br />ゴン太「ぼく、学校へ行きたくない」<br /><br />普通の親なら、子どもが困ったことを言い出したと悩みそうですが、わが家では、子どもがすくすくと育っていることににっこりです。<br /><br />ゴン太が学校へ行きたくないと意思表示したのは初めてです。ホームスクーラーの中には、子どもが学校へ行きたいと言ったら困るという人もいます。私たち夫婦は、子どもが学校へ行きたいと言ったら学校へ行かすことを検討する気でいます。（その「学校」は近所の小学校とは限りませんが）<br /><br />ゴン太が学校へ行きたくないと言ったのを喜んだのには、わけがあります。実は、私たち自身、何が子どもにとって最良の教育か、わからないままホームスクーリングにのぞんだのです。ナナの入院を契機に、ホームスクーリングの第二フェーズへ進みました。あらためて、そのことを綴ってみます。<br /><br />ホームスクーリングもまた、世間の標準と信じられていることと違う世界へ踏み出すのですから、リスクを負うはずです。リスクがあるから避けようというのは、安全に見えて、実は危険です。リスクを知らないことは、さらなるリスクだからです。最良の安全は、最適なリスクヘッジです。リスクヘッジなきアドベンチャーは、自殺行為です。<br /><br />ホームスクーリングそのものは、正しいことでもなく、間違ったことでもありません。自然は、悪魔でもなく、神様でもありません。究極の中立公正です。しかし人間は、自然を悪魔と見たり、神様と見たりします。自然は、人間にとって大きなリスクです。リスクをヘッジすることこそが、安全です。学校教育が、流れに身をまかせることならば、ホームスクーリングは流れをヘッジすることでしょう。<br /> ]]>
        
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    <title>ホームスクーリング　1年目の総点検</title>
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    <published>2008-04-15T11:53:07Z</published>
    <updated>2008-04-16T16:31:39Z</updated>

    <summary>前回のカキコから、かなり間があきました。あまりに多くのできごとがあり、ホームスクーリングに転機が訪れて、記述をしかねていたのです。ここらで、ホームスクーリングの1年目をふりかえり、この1年が何だったのかをまとめておくことは重要だと思います。1年目の転機は、何をおいても、第4子出産です。今年1月5日のことでした。その前後において、わが家のホームスクーリングは大きく変わりました。子どもにとってもそうですが、親にとってもそうです。親子とも、成長をなした1年でした。わが家の家族は、妻（ナナ）、第1子（男、7歳、ゴン太）、第2子（女、4歳、チャコ）、第3子（女、2歳、リリコ）、第4子（女、0歳、トウコ）...</summary>
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        <name>momo7</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[前回のカキコから、かなり間があきました。あまりに多くのできごとがあり、ホームスクーリングに転機が訪れて、記述をしかねていたのです。ここらで、ホームスクーリングの1年目をふりかえり、この1年が何だったのかをまとめておくことは重要だと思います。<br /><br />1年目の転機は、何をおいても、第4子出産です。今年1月5日のことでした。その前後において、わが家のホームスクーリングは大きく変わりました。子どもにとってもそうですが、親にとってもそうです。親子とも、成長をなした1年でした。<br /><br />わが家の家族は、妻（ナナ）、第1子（男、7歳、ゴン太）、第2子（女、4歳、チャコ）、第3子（女、2歳、リリコ）、第4子（女、0歳、トウコ）、そして私の6人です。<br /><br />次回から、少しずつ、書いていきます。<br /> ]]>
        
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    <title>教育委員会へ提出した文書6 方針</title>
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    <published>2007-12-18T14:19:25Z</published>
    <updated>2007-12-20T14:21:07Z</updated>

    <summary>　法令においては、日本国憲法→国際条例→準憲法的法令（教育基本法）→国内法令（学校教育法など）という優先順位をふまえて法の趣旨・法の正義を第一とし、文部科学省の教育方針（確かな学力、なかでも「課題発見力」）を第二とし、生涯学習の概念を第三とし、国が定める学習指導要領に準ずる「ホームスクーリング要領」を別途定め、常に検証と修正を行い、公教育を凌駕する教育の実現に努める。　私は、教育問題について深い理解を持たず、いまなお持ち得ていないが、この半年間に、地域と京都大学大学院教育学研究科との協定に基づく活動に関わる中で、いくぶんの理解を獲得した。が、長男が親を上回って教育の本質に迫ったことを知り、がく...</summary>
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        <![CDATA[　法令においては、日本国憲法→国際条例→準憲法的法令（教育基本法）→国内法令（学校教育法など）という優先順位をふまえて法の趣旨・法の正義を第一とし、文部科学省の教育方針（確かな学力、なかでも「課題発見力」）を第二とし、生涯学習の概念を第三とし、国が定める学習指導要領に準ずる「ホームスクーリング要領」を別途定め、常に検証と修正を行い、公教育を凌駕する教育の実現に努める。<br /><br />　私は、教育問題について深い理解を持たず、いまなお持ち得ていないが、この半年間に、地域と京都大学大学院教育学研究科との協定に基づく活動に関わる中で、いくぶんの理解を獲得した。が、長男が親を上回って教育の本質に迫ったことを知り、がく然とすると同時に、その芽を摘まず、伸ばしてやることを望んで止まないところである。長男が語った言葉で締めくくる。<br />「ぼくの『学校』の名前を考えたで。『なんでも学校』っていうねん。<br />もうひとつの言い方はな、『どこでも学校』やねん。<br />もうひとつの言い方はな、『だれでも学校』やねん」<br /> ]]>
        
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    <title>教育委員会へ提出した文書5 ホームスクーリングの課題</title>
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    <published>2007-12-17T14:16:23Z</published>
    <updated>2007-12-20T14:18:41Z</updated>

    <summary>　教育の責任主体を学校にゆだねるのが「学校教育」であり、家庭にゆだねるのが「ホームスクーリング」である。　すべての家庭が教育の責任主体たりうることは理想であっても現実には著しく困難である。公教育は、それがいかなる重大な瑕疵を包含していようとも、その存在は必然であり、何人も否定できない。　が、公教育の存在必然性が、教育の責任主体たることを望む家庭の責任主体としての位置づけを否定するなら、公教育がいかなる家庭をも上回る理念と実践とを有しておらねばならず、それもまた現実には不可能である。　公教育の瑕疵・不足を認識する家庭が自ら教育の責任主体となることを法令は禁じてはおらず、むしろ、改訂・教育基本法に...</summary>
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        <category term="ホームスクーリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[　教育の責任主体を学校にゆだねるのが「学校教育」であり、家庭にゆだねるのが「ホームスクーリング」である。<br />　すべての家庭が教育の責任主体たりうることは理想であっても現実には著しく困難である。公教育は、それがいかなる重大な瑕疵を包含していようとも、その存在は必然であり、何人も否定できない。<br />　が、公教育の存在必然性が、教育の責任主体たることを望む家庭の責任主体としての位置づけを否定するなら、公教育がいかなる家庭をも上回る理念と実践とを有しておらねばならず、それもまた現実には不可能である。<br />　公教育の瑕疵・不足を認識する家庭が自ら教育の責任主体となることを法令は禁じてはおらず、むしろ、改訂・教育基本法にあっては奨励さえされている。<br />　そのさい、責任主体となる家庭が文部科学省が掲げる方針を逸脱し、公教育にはるか及ばぬ結果に帰結したとしても、その責任はすべて家庭に帰せられることは当然の道理であって、責任を負えない家庭が主体となることを軽率に望んでならぬことは、「児童の最善の利益」を主とすることを定めた子どもの権利条約に照らして明白であり、国内諸法においても、まったく違背しない。が、家庭に求める責務は同等に公教育においても求められるものであり、当該家庭より「児童の最善の利益」を実現しうるかどうかが、公教育の家庭に比する優位性を決定しうる最第一の要因であり、公教育がそのような保証をすべての家庭においてなしうることは公共の概念からして適切とは言えず、家庭の補完的立場にとどめるべきである。<br /><br />　上記の結論をもってして、家庭における教育責任主体は重視されるべきであるがその責任は重大であり、不断の努力と不屈の邁進が要請されることは言を待たない。その責任はまさに国家や行政に転嫁することは許されず、家庭が全面的に追うべきであり、たかだか人間にすぎない家庭（具体的には父母等の保護者）が負うには現実的と言えず、社会的支援が要請されるところである。その文脈からすると、公教育とホームスクーリングとは対立すべきでなく、相互補完的であるべきで、新・教育基本法第13条において、明文化されているように、協調的である必要がある。<br /><br />　ホームスクーリングにおける手法は暗中模索であるが、教育とは失敗の許されぬものである。子どもの経過年齢は、再現不能である。常に児童にとっての最大の利益を鑑み、どのような修正や転換をも甘受することを、ホームスクーリングを決意する家庭は認識せねばならないし、公教育・行政もまた、認識せねばならないことである。<br />]]>
        
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    <title>教育委員会へ提出した文書4 生涯学習の有効性</title>
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    <published>2007-12-16T14:13:32Z</published>
    <updated>2007-12-20T14:14:53Z</updated>

    <summary>　学校教育が「目的を設定する学び」であるなら、生涯学習は「目的のない学び」といえる。　生涯学習が「動機に基づく学び」であるなら、学校教育は「動機のない学び」といえる。　学校教育は課題発見力を重視するが「課題発見能力を課題としてもった時点で課題発見能力の育成は頓挫してしまう」という自家撞着が存在する。課題発見力の育成には、目的ではなく動機が必要。　学びに目的を設定すれば、「知の矮小化」をもたらす。目的の設定と「知の総合化」は両立し得ないパラドクスである。「知の総合化」は結果であって目的ではない。学校教育が、「目的を設定し得ない結果」を受容しうるか？　これを解決できるかどうかが、学校教育「再生」の...</summary>
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        <name>momo7</name>
        
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        <category term="ホームスクーリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[　学校教育が「目的を設定する学び」であるなら、生涯学習は「目的のない学び」といえる。<br />　生涯学習が「動機に基づく学び」であるなら、学校教育は「動機のない学び」といえる。<br /><br />　学校教育は課題発見力を重視するが「課題発見能力を課題としてもった時点で課題発見能力の育成は頓挫してしまう」という自家撞着が存在する。課題発見力の育成には、目的ではなく動機が必要。<br />　学びに目的を設定すれば、「知の矮小化」をもたらす。目的の設定と「知の総合化」は両立し得ないパラドクスである。「知の総合化」は結果であって目的ではない。学校教育が、「目的を設定し得ない結果」を受容しうるか？　これを解決できるかどうかが、学校教育「再生」の重要ポイントである。それは、リテラシーであり、ポートフォリオによってしか認知し得ない。<br />　文部科学省の方針を忠実にトレースすることは、学校教育においては不可能ではないか。（今後、学校教育がドラスティックに変更されるならその限りではない）<br />　現段階で、「確かな学力」を養成するには、「アン・スクーリング」（反学校でなく、非学校でなく、脱学校でなく、超学校の概念）しかないのではないか。そのことは、現行法令に違反しないし、違反したという実績もない。 ]]>
        
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    <title>教育委員会へ提出した文書3 学校教育の諸問題</title>
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    <published>2007-12-03T14:51:54Z</published>
    <updated>2007-12-03T15:55:13Z</updated>

    <summary>　目的を設定しカリキュラムに沿って行うのが学校教育。しかも、平等・公正・中立である。「平等・公正・中立」が機会でなく結果について重要であるなら、知性も課題発見力も自立もありえない。なぜなら、知性とは新たな発見であり、課題発見力とは「あえて新たな発見を促すこと」であり、自立とは「新たな発見が認められること」に他ならないからであり、結果が規定されるなら新たな発見の余地は生じない。　このことは昭和52-53年の学習指導要領改訂ににじんでいるが、その後「ゆとり教育」として果実され、現在、ほぼ否定されている。カリキュラムを前提とする学校教育においてカリキュラムを超越することは本来的な矛盾をきたす。現在は...</summary>
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        <category term="ホームスクーリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[　目的を設定しカリキュラムに沿って行うのが学校教育。しかも、平等・公正・中立である。「平等・公正・中立」が機会でなく結果について重要であるなら、知性も課題発見力も自立もありえない。なぜなら、知性とは新たな発見であり、課題発見力とは「あえて新たな発見を促すこと」であり、自立とは「新たな発見が認められること」に他ならないからであり、結果が規定されるなら新たな発見の余地は生じない。<br />　このことは昭和52-53年の学習指導要領改訂ににじんでいるが、その後「ゆとり教育」として果実され、現在、ほぼ否定されている。カリキュラムを前提とする学校教育においてカリキュラムを超越することは本来的な矛盾をきたす。現在は、その矛盾が抜き差しならぬ状況。<br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">学力低下</font></b><br />　学習時間の多寡、学習内容の濃密に原因があるのではなく、構造的な問題。課題発見力を求められているにもかかわらず、それを要請できないシステム。<br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">いじめ</font></b><br />　「いじめがあるか、ないか」という二元論的対応はそもそも非現実。いじめは異文化接受の問題であり、「知性→課題発見力→自立」によってその存在が非問題化する。<br />　逆にいうと、知性の欠如がいじめを問題化し、課題発見力の欠如がいじめを解決困難な問題とし、自立の欠如がいじめを深刻な問題とする。いじめが起きると、「心の教育」が叫ばれるが、思いやりの欠如がいじめにつながるのではなく、異質なものの受け入れ方が未熟であることがいじめをこじらせるのではないか。いじめの「解決」には知性の養成が要請される。果たして、学校教育で知性の養成は可能か？　それは、「学力」には違いないが、テストで計測できる学力ではない。<br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">不登校問題</font></b><br />　法解釈の根本的な誤りが致命的。<br />「就学義務」ならば、学校に行かないことは問題。<br />「教育義務」ならば、学校に行かないことは事象であって問題ではない。<br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">研究者からの示唆に富む指摘</font></b><br /><blockquote><div align="right">2006年（平成18年）12月1日（金）読売新聞<br />教育ルネサンス フォーラム「義務教育改革シンポジウム」<br /></div><div align="right">田中耕治 京大教授（1952年生まれ。専門は教育方法学）<br /></div><b>「学力」適切な評価法必要</b><br />　学力は「わかる力」、能力は「生きる力」と言い換えることができる。学力は能力の一部だが、中軸を占めると考えたい。いかに能力に結びついた学力を身につけるかが課題だ。<br />　現在の論争は「ゆとり教育」批判から起こった学力低下問題に端を発するが、学力の質を問わずに水準の低下ばかり論争しても、本質的な解決にはならない。学力実態を把握するには、「学力の水準」「学力の格差」「学力の質と構造」「学習への意欲」の四つの視点を持つべきだ。<br />　国際学力調査を分析すると、我が国の学力水準は、順位が低い分野があるのは確かだが、過剰に反応するほどではない。ただ、中学生の学力低下には注意が必要だ。小学校中学年から中学生まで、学習の遅れの固定化傾向が見られる。<br />　学力の中身である質と構造を見ると、応用力や読解力を問う課題を解く率が低い。中学生では、それ以前の基礎学力にも揺らぎが見られる。全体の学習意欲も年々低下しており、どう意欲を喚起するかが課題だ。<br />　格差の放置でも、低いレベルでの平等でもなく、高い質の学習を多くの子供に提供することが理想だ。<br />　現在、必要な学力とされる「リテラシー」とは、「文化を読み解き、再構成する能力」と規定できる。これは、三つの要素を経て形成されると考えている。<br />　まず「『本』を読むこと」。新しい文化の内容を能動的に習得することだ。次に「『本』で世界を読むこと」。自分たちの生きる世界をより深く理解するため、習得した知識を活用することを意味する。さらに「自分の『本』を創ること」。学んだことを自己評価を加えながら表現するために探究することを指す。<br />　リテラシーは従来のテスト法では評価できない。米国でも、標準テストが生活からかけ離れているとの反省から、最近は「真正（本物）の評価」をしようという機運が高まり、学んだことを何らかの表現作品として発表させるパフォーマンス評価法や、学習計画や作品、自己評価を収める「ポートフォリオ」の評価が注目されている。<br />　リテラシーをはぐくむには、それにふさわしい評価を行うことも求められる。そうすることで初めて「確かな学力」が形成される。<br /></blockquote><br /> ]]>
        
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    <title>教育委員会へ提出した文書2　文部科学省の教育方針</title>
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    <published>2007-12-02T14:30:06Z</published>
    <updated>2007-12-03T04:13:49Z</updated>

    <summary>前回、教育委員会へ提出した文書の冒頭部分を掲載しましたが、ついでに続きも掲載します。章ごとに切って載せます。・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.新・学習指導要領のねらい　現状分析の上で、「知識・技能はもちろん、学ぶ意欲、思考力、判断力、表現力などを含めた学力を子どもたちに身に付けさせることが必要」と結論づけている。そして方針を「完全学校週５日制の下、各学校が「特色ある教育」を展開し、子どもたちに学習指導要領に示す基礎的･基本的な内容を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考える力などの［生きる力］をはぐくむ」としているポイントは・教育内容の厳選・選択の幅...</summary>
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        <name>momo7</name>
        
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        <category term="ホームスクーリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[前回、教育委員会へ提出した文書の冒頭部分を掲載しましたが、ついでに続きも掲載します。章ごとに切って載せます。<br /><br />・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.<br /><br /><font style="font-size: 1.25em;"><b>新・学習指導要領のねらい</b></font><br /><br />　現状分析の上で、「知識・技能はもちろん、学ぶ意欲、思考力、判断力、表現力などを含めた学力を子どもたちに身に付けさせることが必要」と結論づけている。そして方針を「完全学校週５日制の下、各学校が「特色ある教育」を展開し、子どもたちに学習指導要領に示す基礎的･基本的な内容を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考える力などの［生きる力］をはぐくむ」としている<br /><br />ポイントは<br />・教育内容の厳選<br />・選択の幅の拡大<br />・総合的な学習の時間の創設<br />・個に応じた指導の充実<br />・体験的、問題解決的な学習活動の重視<br />&nbsp;<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="20071202_1.jpg" src="http://souraku.net/blog/momo/20071202_1.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" height="157" width="400" /></span>&nbsp; &nbsp;<br />教育内容の厳選として<br />・全員が共通に学ぶ内容を厳選することにより生じる時間的・精神的な余裕（ゆとり）を活用し、<br />(1)子ども一人一人の理解や習熟の程度等に応じたきめ細かな指導を行う<br />(2)観察・実験、調査・研究、発表・討論などの体験的、問題解決的な学習を行う<br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="20071202_2.gif" src="http://souraku.net/blog/momo/20071202_2.gif" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" height="255" width="400" /></span><br /><br />　総合的な学習については「総合的な学習」が「課題発見力」を養成し「知の総合化」につながるとしている。<br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="20071202_3.jpg" src="http://souraku.net/blog/momo/20071202_3.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" height="234" width="400" /></span><br /><br />　学習指導要領の変遷を見ると、昭和52-53年の改訂に「ゆとり」と「詰め込み」が混在し、ターニングポイントであったことがうかがえる。この時代に「詰め込み」の批判が殺到し、詰め込みの弊害が広く認識されていた。（ex.応用が利かない）<br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="20071202_4.jpg" src="http://souraku.net/blog/momo/20071202_4.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" height="556" width="400" /></span><br /><br />　結果として描いた図式は<br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="20071202_41.jpg" src="http://souraku.net/blog/momo/20071202_41.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" height="165" width="400" /></span><br /><br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">確かな学力</font></b><br /><b>8つの要素</b><br />　学ぶ意欲　　→思考力<br />　知識・技能　→判断力<br />　学び方　　　→表現力<br />　課題発見力　→問題解決能力<br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="20071202_5.jpg" src="http://souraku.net/blog/momo/20071202_5.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" height="366" width="400" /></span><br /><br />　対角は意味がある。右辺には左辺が基礎となることが省みられなかったが、いま、明確に図示されている。とくに「課題発見力」は新規であり、最重視。<br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">「ゆとり教育」から「確かな学力」へ</font></b><br />　「ゆとり教育」の言い換えが、「課題発見能力」。ゆとり教育は手段であって、目的ではない。課題発見能力は目的であって、手段ではない。課題発見には、課題が与えられてはならず、「何が課題であるか」を見いだすための試行錯誤、右往左往が許容されねばならない。ゆとり教育に対する短絡的な誤解が批判をうんだが、文部科学省は、基本姿勢を変えず、表現だけを変えた。<br /><br />　文部科学省の学力チャートの中心「生きる力」は「自立」とほぼ等しい。義務教育が「自立」をめざすことは、新・教育基本法第5条に明記されている。「生きる力」の要である「確かな学力」に配置された「課題発見能力」こそが、最も重要で、教育改革の要点になる。<br /><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">自立</font></b><br />他人に惑わされず自分で考え行動する勇気<br />自らのことは自らが決め、それを実践していく能力<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br />　ゆとり教育、総合的な学習が目指したものは、「自立」であると考えられる。社会が必要とする人材は、経済成長期の「労働者」ではなく、自立した社会参画者。指示がなければ何もできないのではなく、自分の役割を自分で見いだして、協働していく。<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br /><blockquote>　依存状態にある時、自分の人生の主役は自分ではありません。依存対象の相手が自分の人生の主役になっており、自分の人生を支配しているのです。<br />　自立とは、自分の人生の主役に自分がなることであり、そのための道筋には次の二つがあります。<br />　その一つは、依存対象の喪失であり、依存対象が恋人の場合には、失恋が自立へと向かうチャンスになるのです。ところが、失恋をきっかけに別の依存対象を見つけてしまい、同じことを繰り返す人もめずらしくありません。この道筋は、確実に自立に到達するとは言えないのです。<br />　自立へと向かうもう一つの道筋は、依存状態の自分に疑問を抱くことです。自分を犠牲にして相手に合わせるのではなく、自分の夢を実現したいと思うことであり、この道筋の方が確実に、自立へと向かうことができるでしょう。<br />　いずれにしても、孤独に弱いままでは、夢を実現することができません。それぞれが孤独を引き受け、夢の実現に向けて努力することが、互いの人格を尊重し合える、よりよい人間関係を可能にするのです。<br />(東京女子医科大学助教授　諏訪茂樹　<a href="http://homepage1.nifty.com/shigeki-suwa/loneliness/">http://homepage1.nifty.com/shigeki-suwa/loneliness/</a>)<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; </blockquote><br /><b><font style="font-size: 1.25em;">知性</font></b><br />・自分が正しいと思っている内容・論理・事象を自分で批判する能力<br />・ネットワークを創発させる能力<br />・物事を客観的かつ冷徹に眺めることのできる眼差し<br />などの表現があるが、まとめるなら、<br />・視点・意見・思想などを客体化する力<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br />　ひとつのものごとを、いろんな角度から見て、あらゆる局面、あらゆる可能性を視野に入れること。それができないと、課題発見などできない。たくさん知っていること、計算が速いこと、問題を解くのが得意なこと、これらはコンピュータでもできること。人間は、コンピュータより高次の能力を持つ。それを開発すべし。<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br />　知性→課題発見力→自立<br /><br />]]>
        
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    <title>教育委員会へ提出した文書1　ホームスクーリングと法律</title>
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    <published>2007-11-30T18:09:22Z</published>
    <updated>2007-12-03T04:09:28Z</updated>

    <summary>ホームスクーリングと法律の関係を整理してみます。（これは、南山城村教育委員会へ渡した文書です）・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.　結論から言うと、ホームスクーリングは違法でもないし法的裏付けもない「法的未整備状態」。[就学義務の根拠]　義務教育は「教育義務」と「就学義務」に大別され、先進国は教育義務を採用する国が多い中、日本は就学義務であるとされる。その根拠は学校教育法第22条、第39条にあり、9年間の義務教育年限が定められ、保護者は、保護する子女の6歳に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、満15歳に達した日の属する学年の終わりまで、...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://souraku.net/blog/momo/">
        <![CDATA[ホームスクーリングと法律の関係を整理してみます。<br />（これは、南山城村教育委員会へ渡した文書です）<br /><br />・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.。・:*.・☆。・:*・。.<br /><br /><img src="file:///C:/DOCUME%7E1/momo/LOCALS%7E1/Temp/moz-screenshot-1.jpg" alt="" />　結論から言うと、ホームスクーリングは違法でもないし法的裏付けもない「法的未整備状態」。<br /><br />[就学義務の根拠]<br />　義務教育は「教育義務」と「就学義務」に大別され、先進国は教育義務を採用する国が多い中、日本は就学義務であるとされる。その根拠は学校教育法第22条、第39条にあり、9年間の義務教育年限が定められ、保護者は、保護する子女の6歳に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、満15歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを義務教育諸学校に就学させなければならないことになっている。それに対する罰則規定として、学校教育法第91条には、就学義務の督促を受け、なお履行しない者には、10万円以下の罰金とある。<br />　しかし、就学義務はわずか学校教育法においてのみみられる規定であり、教育という基本的人権の根本たるテーマを上位法に求めれば、「就学義務」を教条的に運用することの違法性が浮き彫りとなる。そのことが「法的未整備状態」といわれるゆえんである。<br /><br /><b>日本国憲法</b><br />第26条　教育を受ける権利、義務教育<br />すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。<br />１　すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。<br /><br />　義務は「普通教育」であって「学校教育」ではない。「普通教育」とは、職業教育、専門教育、特殊教育ではない一般的基礎的教育を意味するとされる。ホームスクーリングが親による教育遺棄であるかどうかは、それが普通教育であるかどうかによる。「普通教育は学校教育である必要はなく、憲法上は家庭で教育をほどこす自由があるというべきである（松井茂記氏『日本国憲法』有斐閣、489頁」）。<br /><br /><b>教育基本法</b><br />　憲法に準ずる性格をもつ教育基本法で、上位法の憲法にある「普通教育」という言葉がそのまま使われている。ここでも就学義務規定は見られない。社会教育の項目についても、注目すべきである。「家庭教育」が国及び自治体によって「奨励されなければならない」ものと明示されている。「社会教育」というものを、行政は積極的に受け入れなければならない。<br /><br />第４条　義務教育　<br />国民は、その保護する子女に、９年の普通教育を受けさせる義務を負う。<br />２　国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。<br /><br />第７条　社会教育　<br />家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。<br />２ 国及び、地方公共団体は、図書館、博物館、公民館などの施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。<br /><br /><b>新・教育基本法</b><br />　保護者に義務づけられているのが「普通教育」であって「学校教育」でないことはなにも変わっていない。また、家庭教育、社会教育、生涯学習が明確に位置づけられ、強調されている。その文脈からすると、親が責任を持つホームスクーリングはむしろ奨励されることになる。<br /><br />（生涯学習の理念）<br />第3条　国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。<br /><br />（義務教育）<br />第5条　国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。<br />２　義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。<br />３　国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。<br />４　国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。<br /><br />（学校教育）<br />第6条　法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。<br />２　前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。<br /><br />（家庭教育）<br />第10条　父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。<br />２　国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。<br /><br />（社会教育）<br />第12条　個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。<br />２　国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。<br /><br />（学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力）<br />第13条　学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。<br /><br />（教育行政）<br />第16条　教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。<br />２　国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。<br />３　地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。<br />４　国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。<br /><br /><b>学校教育法</b><br />　最も問題がある就学義務は、学校教育法においてのみ見られる。憲法および新旧の教育基本法で使われている「義務」の意味は、学校が国民に対して負っているという意味の義務であって、大日本帝国憲法での兵役義務のように「子どもに登校を義務づけている」と解釈されることは、現在の憲法の下で、あるいは基本的人権を重んじる民主主義国家にあまねくあり得ない。憲法や教育基本法は、国家権力による思想洗脳から親の自然権である家庭教育を守り、さらには主権在民の考え方によって学校制度が守られるために生まれたものであって、普遍的な原理である。<br /><br />第22条<br />保護者（子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ）は、子女の満６才に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う。ただし、子女が、満12歳に達した日の属する学年の終わりまでに小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了しないときは、満15歳に達した日の属する学年の終わり（それまでの間において当該教育を修了したときは、その修了した日の属する学年の終わり）までとする。<br /><br />第39条<br />保護者は、子女が小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満15才に達した日の属する学年の終わりまで、これを、中学校、中等教育学校の前期課程又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の中学部に就学させる義務を負う。<br /><br />第91条　<br />第22条第一項又は第３９条第一項の規定による義務教育履行の催促を受け、なお履行しない場合は、これを１０万円以下の罰金に処する<br /><br />　法関係者の多くは「行政が、ホームスクーリングを訴えたとしても、行政に勝ち目はないだろう」という見解を示す。ただし日本国内では米国のような裁判事例はなく、当然判例もない。<br /><br /><b>世界人権宣言</b><br />第２６条の３　　親は、子どもの教育の種類を選択する優先的権利を有する<br /><br />　世界人権宣言は1948年に国連総会にて採択され、日本も1979年に世界人権宣言を条約化した「国際人権規約」を批准した。<br /><br /><b>国際人権規約</b><br />第１３条<br />３　この規約の締約国は、父母及び場合により法定保護者が、公の機関によって設置される学校以外の学校であって国によって定められ又は承認される最低限度の教育上の基準に適合するものを児童のために選択する自由並びに自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。<br />４　この条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。<br /><br />　「国際人権規約」の批准国である日本は、親が普通教育の内容を決める優先的権利をもっていることを公的に認めたこととなる。<br /><br /><b>国連子どもの権利条約</b><br />　国際人権条約と同様に、親が普通教育の内容を決める優先的権利をもっていることを明文化している。また、教育とは「児童の最善の利益」が優先されること、「父母又は場合により法定保護者は、児童の養育及び発達についての第一義的な責任を有する。児童の最善の利益は、これらの者の基本的な関心事項となるものとする」が定められている。<br /><br />第29条<br />1　締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。<br />（a）児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。 <br />（b）人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。 <br />（c）児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。 <br />（d）すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の並びに原住民である者の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること。 <br />（e）自然環境の尊重を育成すること。 <br />2　この条又は前条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。ただし、常に、1に定める原則が遵守されること及び当該教育機関において行われる教育が国によって定められる最低限度の基準に適合することを条件とする。<br /><br />第3条<br />1　児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。<br /><br />第18条<br />1　締約国は、児童の養育及び発達について父母が共同の責任を有するという原則についての認識を確保するために最善の努力を払う。父母又は場合により法定保護者は、児童の養育及び発達についての第一義的な責任を有する。児童の最善の利益は、これらの者の基本的な関心事項となるものとする。<br />2　締約国は、この条約に定める権利を保障し及び促進するため、父母及び法定保護者が児童の養育についての責任を遂行するに当たりこれらの者に対して適当な援助を与えるものとし、また、児童の養護のための施設、設備及び役務の提供の発展を確保する。<br /><img src="file:///C:/DOCUME%7E1/momo/LOCALS%7E1/Temp/moz-screenshot.jpg" alt="" /> ]]>
        
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    <title>学校へ行かないのは悪いことか？</title>
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    <published>2007-11-29T14:15:22Z</published>
    <updated>2007-12-03T04:01:23Z</updated>

    <summary>不登校が「不登校問題」であるのは、複雑であるように見えて、実に単純です。「学校へ行かないといけない」という金科玉条が根源です。「学校へ行かないといけない」が真実なら、学校へ行っていない状況は誤りであり、正すべきです。多くの人はそう思っているようです。が、「学校へ行かないといけない」をちょっと追求してみると、その根拠はないことに気づきます。むしろ、現状の保守勢力は「自己責任」を拡大しており、教育基本法改正においても、自己責任の拡充が企図されていることは明らかです。家庭、地域社会を成り立たせていくには、自己の責任なくしてはありえないことです。かたや、格差是正が言われています。私はそれを、「自己責任...</summary>
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        <![CDATA[不登校が「不登校問題」であるのは、複雑であるように見えて、実に単純です。「学校へ行かないといけない」という金科玉条が根源です。「学校へ行かないといけない」が真実なら、学校へ行っていない状況は誤りであり、正すべきです。多くの人はそう思っているようです。<br /><br />が、「学校へ行かないといけない」をちょっと追求してみると、その根拠はないことに気づきます。むしろ、現状の保守勢力は「自己責任」を拡大しており、教育基本法改正においても、自己責任の拡充が企図されていることは明らかです。家庭、地域社会を成り立たせていくには、自己の責任なくしてはありえないことです。かたや、格差是正が言われています。私はそれを、「自己責任を全うし得ない人をどう救済するか」という文脈に置き換えてみています。<br /><br />さて、不登校問題にもどりますが、不登校問題の解決は非常に困難とみなされながら、実は非常に容易であると見ています。すなわち、「学校へ行かないといけない」という前提をはずせば、即解決なのです。もっとも、不登校という現状は変わりません。大事なのは、学校へ行っていないというのが、「改善すべき問題」であるのか「単なる事象」であるのかということです。<br /><br />ゴン太に対してホームスクーリングをしていて、何も間違ったことはしていないのに（むしろ政権与党からすれば奨励すべき？）、ひけめに感じる必要などは全くないのに、どこかしら配慮せねばならないうやむやが現存していることが、教育上の最大の問題ではないかと思います。<br /><br />先日ゴン太は、野殿童仙房小学校跡地で行われた、あるセカンドスクールに参加しました。小学生が30人余り参加しています。その中で、田舎の子はゴン太1人です。さらにホームスクーリングはゴン太1人です。<br /><br />自分が1人、際立っていることを怖れてはなりません。1人で立つことを怖れるなら、マスへの迎合を志向することとなり、それは20世紀型人生観です。幼い子どもだから、そうはいかんだろうという反論が出ることを想定しています。また、1人で立つことを親の無意識に強要しているのではないかという反論も想定しています。<br /><br />ゴン太に、セカンドスクールで、学校に行っている子たちと自分で違いを感じたかと聞いたが、とくに感じなかったそうです。ただ、学校へ行っている子たちは、宿題をたくさんもってきたといいます。ゴン太は、たいへんだなあと思ったそうです。私が以前、「いやいや勉強しても身につかない」と言ったことを覚えていたし、「どんなことでも勉強だ」といったことも覚えていました。勉強とは何か、ゴン太は学びつつあるようです。<br /><br />ゴン太は、大人が懸念する「集団に対する自己」を確立しています。もっとも、その裏打ちは、親の生き様に他なりません。ゴン太の「自己確立」には、私が生命を賭する責任を持ちます。<br /><br />ところで、学校へ行かせている親たちは、子どもの成長に対し、「生命を賭する責任」をお持ちでしょうか？　私がこういう挑発的な問いかけをするには、そうでない親が多いと見えるからです。また、そうでない親ほど、学校や社会に不満をぶちまけています。<br /><br />改善すべきは、まず自分です。そこには、他へ責任転嫁し得ない、自分の子どもへの愛情があります。世界中を敵にまわしてでも子どもを愛するのだという覚悟があります。その覚悟には、「親のプライドなどどうでもよい」ということも伴いますが。<br /><br /> ]]>
        
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    <title>ゆとり教育批判が求めるゆとり教育</title>
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    <published>2007-11-22T14:59:26Z</published>
    <updated>2008-04-25T07:34:23Z</updated>

    <summary>ゆとり教育批判論には、こういうものが目立ちます。学校が十分教えないから塾で補わないといけない　　↓子どもが忙しくなるその結果、子どもは創造性や応用力を育成することなく、結果を出すことに忙殺されてしまいます。これは由々しき事態です。学校で十分な内容を教えさえすれば、子どもは余裕ができるはずで、教科書以外の様々な学びや遊びに打ち込めるはずです。あれ？　なんかおかしい。ゆとりをつくるはずのゆとり教育が子どもたちからゆとりを奪い、ゆとり教育批判論がゆとり回復をめざしている？　何のことはない。ゆとり教育批判論がめざしているのはゆとり教育そのものではないか。では、なぜゆとり教育をめざすためにゆとり教育を批...</summary>
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        <![CDATA[ゆとり教育批判論には、こういうものが目立ちます。<br /><br />学校が十分教えないから塾で補わないといけない<br />　　↓<br />子どもが忙しくなる<br /><br />その結果、子どもは創造性や応用力を育成することなく、結果を出すことに忙殺されてしまいます。これは由々しき事態です。学校で十分な内容を教えさえすれば、子どもは余裕ができるはずで、教科書以外の様々な学びや遊びに打ち込めるはずです。<br /><br />あれ？　なんかおかしい。ゆとりをつくるはずのゆとり教育が子どもたちからゆとりを奪い、ゆとり教育批判論がゆとり回復をめざしている？　何のことはない。ゆとり教育批判論がめざしているのはゆとり教育そのものではないか。では、なぜゆとり教育をめざすためにゆとり教育を批判（否定）せねばならないのか。文科省と教育現場の乖離が諸悪の根源でしょうか。<br /><br />現場では骨身を惜しんで奮闘されている先生方も多くいらっしゃいます。それをわかった上で申します。学習指導要領には、最低限だけ記されていて、あとはいくら上乗せをしてもよいというのが、ゆとり教育でした。本当に自由ですし、先生方がどのようにおしえてもよかったはずです。なのに、現場は大混乱。<br /><br />教育現場というものは、マニュアルで規定されねば動けないものなのでしょうか。ある意味、最もゆとり教育が必要だったのは、教育現場（教育委員会と先生方）なのではなかったでしょうか。<br /> ]]>
        
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