勉強とはの最近のブログ記事

今年の春から、ゴン太は小学生です。

ホームスクーリングというのは、「学校に行かない」のではなく、「別の学校へ行っている」のです。けっして、教育をしていないわけではありません。むしろ、学校ではできないような、教育をしていくことにこそ、意味があります。
学校というのが何であるか、なぜ学校でない学びを選択したか、小学校進学時に、ゴン太としっかり対話をするよう心がけています。

さて、4月から、子どもがいやがらないように気をつけながら、基礎体力作りをしています。
絵本の書き写しはやりにくそうになってきたので、昔話を薄く原稿用紙に印刷して、鉛筆でなぞるようにしました。算数は、1桁の足し算・引き算を毎日25問(私がExcelで自動作成)。この2つは、私がPCで教材を作成しました。ただし、勉強することを強制はしていません。

春頃、勉強をいやがった時期があり、勉強させようとしたら絶対に逆になるので、勉強させたいときにはその逆をやった方がいいと考えました。「安全に必要なのは危険であり、健康に必要なのは毒である」の発想です。ゴン太に、「勉強することが大事だということを勉強するために勉強しないということをやってみるのも勉強のうちだから勉強するのをやめてみなさい」と言ったけど、さっぱり意味がわからない様子です。3回同じことを言ってみました。けどやっぱりわからなかった・・・。

ゴン太は、一生懸命考えて、「勉強してはいけない」というふうに理解したようです。私の言葉は「勉強禁止令」へとすり替わっていきました。勉強してはいけません。本を読むことは勉強ではない。図鑑を見ることは勉強ではない。虫を観察することは勉強ではない。と、ゴン太は無理に自分で言い聞かせていました。

そのうち、どうも、勉強と勉強でないこととの区別が難しくなってきて、勉強しないでいることが意外と難しいと、おかしな事態になってきて、勉強しないことをギブアップしてしまいました。

勉強禁止?後1カ月ほどで、禁止令解除。それからしばらくは、すいすいと勉強しました。

前回、長男に対する最初の課題として、「絵本をノートに書き写す」と書きました。このことは実は、奥が深いです。

近年の学力低下の原因は、学校教育における学習時間の減少にあるとされ、ゆとり教育がパッシングされていますが、それは本質ではないという見解もちらほら見られます。すなわち、国際学力テストにおいて、最も「学力が高い」とされるフィンランドでは、ゆとり教育時の日本より学習時間が少ないということもあり、学力と学習時間に相関関係はないということです。これは、私の経験上も了解できます。勉強に取り組む意欲次第で、時間当たりの「学習効率」は大幅に変わります。ねじりはちまきで徹夜で受験勉強したって、結果はだせません。学力を改善したいなら、「いかに学習意欲を向上させるか」に腐心した方がいいと思います。
フィンランドの話題は、深入りせずにおきます)

学力低下に関して、すべての教科の基本であるはずの読解力、表現力と言った国語力が他国と比べて低いのが問題であるという指摘も見られます。
「学習」において、最も重視すべきは何でしょうか? 私は、日本語であると、持論をもっています。「読み書きそろばん」のうち、「読み書き」です。とりわけ、最近の日本人が苦手とするように見えるのは「書き」です。前々回書いた、「創造性、論理力、マネジメント力、独創性、プレゼンテーション力といった、まさに『21世紀に必要な能力』」は、まさに「書き」です。論理的思考力、創造力、マネジメント力は、言葉を抜きにありえません。

論理とは、屁理屈ではありません。異文化理解をするには、情緒に訴えていてはダメで、世界共通の概念で語る必要があるのです。論理こそが、ローカルをグローバルに結びつける力です。論理なくては、ローカルは独りよがりになってしまいます。

論理の源は、言葉です。英語が重要であることは論を待ちませんが、その前に、自分の文化を語る言葉、すなわち、日本語を変化自在に使いこなさなければいけません。同じことを表現するにしても、言語の違いで表現した結果が異なったり、そもそも表現できなかったりします。どの言語で思考するかで結果が変わったりもします。

私は、大学生の時、日本語をマスターしたいと思い、原稿用紙を3000枚、購入し、太宰治の作品を書き写す勉強を始めました。1日10枚でも、300日かかります。なぜ、太宰治かというと、作品の好悪は関係なく、あれほど文章作法をはずれていながら、あれほど訴求力が強い文章を、何が何でも身につけたいという思いからなのです。

とうとう、1600枚書いたところで、事情が変わって、打ち切りました。それでも、1600枚は書いたのです。何も考えず、無心になって。その結果がどうであるかは、このブログをご覧になれば赤裸々に見えてしまうわけで、汗顔の極みでございますが・・・

じつは、高校受験、大学受験の際にも、太宰治ではなく、他の文章を書き写す練習をしています。「書き写す」というのは、ある意味、無味乾燥で、おもしろくない作業です。しかしそれは、スポーツでいうところの「走り込み」に相当するのではないかと思っています。おもしろくない作業に見えても、ときおり、ふっと、のめりこんでしまったり、書き写す作業が無性に幸せに感じられたりすることがあります。

太宰治は、師匠の井伏鱒二の作品を「書き写し」て修行を積んだということですが、あの時代の文豪たちは、それぞれ、師と仰ぐ文豪の作品を書き写して鍛えたそうです。壁を突破できるのが3000枚だという話もどこかで見たことがあります。

「書き写し」は、あらゆる勉強の、最たる基本ではないかと思っています。しかし、これを継続するのは、簡単なようで、とても難しい。いままで、多くの人に、このことを伝えながら、実践した人は皆無です。学校教育では、走り込みをせず、いきなり技巧に走っているように見えます。地道な「走り込み」の大切さを深く理解している先生方もいるようですが、学校教育をとりまく時代の流れが、地道な積み重ねを軽んじる傾向にあることは否めないでしょう。できれば、わが子には、基礎の基礎を、身につけて欲しい。そして、日本語を変化自在にあやつってほしい。小手先の技術に走らず、王道を歩いて欲しい。親の念願です。

2010年1月

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