考え方の最近のブログ記事

不登校が「不登校問題」であるのは、複雑であるように見えて、実に単純です。「学校へ行かないといけない」という金科玉条が根源です。「学校へ行かないといけない」が真実なら、学校へ行っていない状況は誤りであり、正すべきです。多くの人はそう思っているようです。

が、「学校へ行かないといけない」をちょっと追求してみると、その根拠はないことに気づきます。むしろ、現状の保守勢力は「自己責任」を拡大しており、教育基本法改正においても、自己責任の拡充が企図されていることは明らかです。家庭、地域社会を成り立たせていくには、自己の責任なくしてはありえないことです。かたや、格差是正が言われています。私はそれを、「自己責任を全うし得ない人をどう救済するか」という文脈に置き換えてみています。

さて、不登校問題にもどりますが、不登校問題の解決は非常に困難とみなされながら、実は非常に容易であると見ています。すなわち、「学校へ行かないといけない」という前提をはずせば、即解決なのです。もっとも、不登校という現状は変わりません。大事なのは、学校へ行っていないというのが、「改善すべき問題」であるのか「単なる事象」であるのかということです。

ゴン太に対してホームスクーリングをしていて、何も間違ったことはしていないのに(むしろ政権与党からすれば奨励すべき?)、ひけめに感じる必要などは全くないのに、どこかしら配慮せねばならないうやむやが現存していることが、教育上の最大の問題ではないかと思います。

先日ゴン太は、野殿童仙房小学校跡地で行われた、あるセカンドスクールに参加しました。小学生が30人余り参加しています。その中で、田舎の子はゴン太1人です。さらにホームスクーリングはゴン太1人です。

自分が1人、際立っていることを怖れてはなりません。1人で立つことを怖れるなら、マスへの迎合を志向することとなり、それは20世紀型人生観です。幼い子どもだから、そうはいかんだろうという反論が出ることを想定しています。また、1人で立つことを親の無意識に強要しているのではないかという反論も想定しています。

ゴン太に、セカンドスクールで、学校に行っている子たちと自分で違いを感じたかと聞いたが、とくに感じなかったそうです。ただ、学校へ行っている子たちは、宿題をたくさんもってきたといいます。ゴン太は、たいへんだなあと思ったそうです。私が以前、「いやいや勉強しても身につかない」と言ったことを覚えていたし、「どんなことでも勉強だ」といったことも覚えていました。勉強とは何か、ゴン太は学びつつあるようです。

ゴン太は、大人が懸念する「集団に対する自己」を確立しています。もっとも、その裏打ちは、親の生き様に他なりません。ゴン太の「自己確立」には、私が生命を賭する責任を持ちます。

ところで、学校へ行かせている親たちは、子どもの成長に対し、「生命を賭する責任」をお持ちでしょうか? 私がこういう挑発的な問いかけをするには、そうでない親が多いと見えるからです。また、そうでない親ほど、学校や社会に不満をぶちまけています。

改善すべきは、まず自分です。そこには、他へ責任転嫁し得ない、自分の子どもへの愛情があります。世界中を敵にまわしてでも子どもを愛するのだという覚悟があります。その覚悟には、「親のプライドなどどうでもよい」ということも伴いますが。

子どもに対して、させてはいけないことと、あまりさせない方がいいことがあります。
親の主観にもよりますが、ゲーム、テレビ、ビデオ、マンガ、といったエンターテーメント系、インターネット、携帯、パソコンといった情報系、アダルト系、反社会系、危険系など。
こういったものは、子どもの精神面がゆがめられるおそれのある毒系と、子どもの生命や身体が脅かされる恐れのある危険系とに分けられそうですが、私は、いずれにせよ、毒や危険を排除しすぎるとかえって危ないと思っています。かといって、無防備なのもいけませんが。

毒は薬に通じ、危険は安全に通じます。
子どもに性を大切にして欲しいが故に、性をタブー視せず、赤ちゃんがどこからどうやって産まれるか、ということをリアルに解説した絵本を与えています。7歳のゴン太も、4歳のチャコも、2歳のリリコも、興味津々です。親は、冷や汗です。「パパとママもこうするの?」という質問が来たらどうしよう・・・
でも、不思議なことに、子どもたちはそう尋ねません。わかっていて遠慮しているのか、聖域だと感じているのか、なんとも微妙ですが。
子どもたちには2歳になると、専用パソコンを与えています。幼児にPCを与えることには是非が分かれそうですが、毒にもなりうるからこそ、与えています。(そのかわり、親がとことん導いていける自信を伴いますが)
ジャンクフード、夜更かし、ビデオ、いずれも否定しません。それが普通となっては困りますが、禁止すればなおのこと子どもは興味を示すでしょうし、毒とのつき合い方を学習できません。

危険についてもそうです。私は、あえて子どもたちに危険を与えます。最近の、都市での子どもを巻き添えにする犯罪は、子どもがどうすることもできないので、与えるべき危険とは思えませんが、幸い田舎では、その点、マシです。むしろ、田舎での危険とは、マムシ、蜂、転落、ケガなどです。これらを排除してはいけません。身を守る術を学習させねばなりません。

安全に必要なのは危険であり、健康に必要なのは毒である。私の持論です。すると、勉強に必要なのは・・・
前回、長男に対する最初の課題として、「絵本をノートに書き写す」と書きました。このことは実は、奥が深いです。

近年の学力低下の原因は、学校教育における学習時間の減少にあるとされ、ゆとり教育がパッシングされていますが、それは本質ではないという見解もちらほら見られます。すなわち、国際学力テストにおいて、最も「学力が高い」とされるフィンランドでは、ゆとり教育時の日本より学習時間が少ないということもあり、学力と学習時間に相関関係はないということです。これは、私の経験上も了解できます。勉強に取り組む意欲次第で、時間当たりの「学習効率」は大幅に変わります。ねじりはちまきで徹夜で受験勉強したって、結果はだせません。学力を改善したいなら、「いかに学習意欲を向上させるか」に腐心した方がいいと思います。
フィンランドの話題は、深入りせずにおきます)

学力低下に関して、すべての教科の基本であるはずの読解力、表現力と言った国語力が他国と比べて低いのが問題であるという指摘も見られます。
「学習」において、最も重視すべきは何でしょうか? 私は、日本語であると、持論をもっています。「読み書きそろばん」のうち、「読み書き」です。とりわけ、最近の日本人が苦手とするように見えるのは「書き」です。前々回書いた、「創造性、論理力、マネジメント力、独創性、プレゼンテーション力といった、まさに『21世紀に必要な能力』」は、まさに「書き」です。論理的思考力、創造力、マネジメント力は、言葉を抜きにありえません。

論理とは、屁理屈ではありません。異文化理解をするには、情緒に訴えていてはダメで、世界共通の概念で語る必要があるのです。論理こそが、ローカルをグローバルに結びつける力です。論理なくては、ローカルは独りよがりになってしまいます。

論理の源は、言葉です。英語が重要であることは論を待ちませんが、その前に、自分の文化を語る言葉、すなわち、日本語を変化自在に使いこなさなければいけません。同じことを表現するにしても、言語の違いで表現した結果が異なったり、そもそも表現できなかったりします。どの言語で思考するかで結果が変わったりもします。

私は、大学生の時、日本語をマスターしたいと思い、原稿用紙を3000枚、購入し、太宰治の作品を書き写す勉強を始めました。1日10枚でも、300日かかります。なぜ、太宰治かというと、作品の好悪は関係なく、あれほど文章作法をはずれていながら、あれほど訴求力が強い文章を、何が何でも身につけたいという思いからなのです。

とうとう、1600枚書いたところで、事情が変わって、打ち切りました。それでも、1600枚は書いたのです。何も考えず、無心になって。その結果がどうであるかは、このブログをご覧になれば赤裸々に見えてしまうわけで、汗顔の極みでございますが・・・

じつは、高校受験、大学受験の際にも、太宰治ではなく、他の文章を書き写す練習をしています。「書き写す」というのは、ある意味、無味乾燥で、おもしろくない作業です。しかしそれは、スポーツでいうところの「走り込み」に相当するのではないかと思っています。おもしろくない作業に見えても、ときおり、ふっと、のめりこんでしまったり、書き写す作業が無性に幸せに感じられたりすることがあります。

太宰治は、師匠の井伏鱒二の作品を「書き写し」て修行を積んだということですが、あの時代の文豪たちは、それぞれ、師と仰ぐ文豪の作品を書き写して鍛えたそうです。壁を突破できるのが3000枚だという話もどこかで見たことがあります。

「書き写し」は、あらゆる勉強の、最たる基本ではないかと思っています。しかし、これを継続するのは、簡単なようで、とても難しい。いままで、多くの人に、このことを伝えながら、実践した人は皆無です。学校教育では、走り込みをせず、いきなり技巧に走っているように見えます。地道な「走り込み」の大切さを深く理解している先生方もいるようですが、学校教育をとりまく時代の流れが、地道な積み重ねを軽んじる傾向にあることは否めないでしょう。できれば、わが子には、基礎の基礎を、身につけて欲しい。そして、日本語を変化自在にあやつってほしい。小手先の技術に走らず、王道を歩いて欲しい。親の念願です。

初期の課題

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ゴン太のホームスクーリングは、小学校就学時に始まったのではありません。ゴン太が保育園・年中の時、小学校統合が決まり、保育園統合も決まったのです。統合問題については、別の機会に書きます。

統合園が「良い保育園」ならば、遠くなっても行かせたでしょうが、そうではないことが問題でした。「そうではない」のは、園長や保育士さんに問題があったわけではありません。ここのところは、統合問題として、別に譲ります。

ゴン太が年長になったとき、行かせるべき保育園がなくなったわけで、わが家の選択肢は2つです。
1.まともな小学校、保育園がある自治体に引っ越しする
2.ホームスクーリング(ホーム保育園)

じつはこの段階で、京都大学大学院教育学研究科と地域の連携が見えていたわけで、他地域へ引っ越しするより、ここで何とかする方が、子どもたちにとっても、より大きな果実が得られるのではないかと期待されました。

2006年4月、ゴン太は保育園に行かなくなり、家で過ごすことになりました。
最初の2カ月ほど、ゴン太は「保育園に行きたい!!」と言っていました。さすがにこの時期、親として、心が迷いました。でも、ふっと気づいたのですが、ゴン太は、自分で遊べない。目の前の状況、目の前にあるものを活用することができない。

なんでだろう? と、夫婦で考えました。どうやら、保育園で、遊ぶことを保育士さんが準備し、指導してくれていたことが、はからずも自発性を伸ばさなかったことにつながっているようです。誤解があっては困りますが、野殿童仙房保育園の保育士さんたちは、とてもいい保育をして下さいました。そのことに最大の感謝をしています。

が、いっぽうで、「いい保育」がマイナスになる面があるのだということに、保育園から離れて初めて気づいたのです。もし、保育園に行かせ続けていたら、気づくことさえなかったかもしれません。

ゴン太に対し、つきはなしを決めました。6月頃から、なんなとある物を工夫して創造的な遊びを試みるようになってきました。そのころから、「保育園に行きたい」と言わなくなりました。

ただ、家の中でごろごろすることも多かったので、秋頃、課題を与えました。3つの課題です。

1.「心の課題」 犬の世話
2.「体の課題」 畑で、一輪車を使って、木材チップを運び、マルチングをする
3.「頭の課題」 絵本をノートに書き写す

スケジュールやカリキュラムではありません。やってもやらなくても、かまいません。
ゴン太は、けっこうがんばっていました。
でも、続かない。

おとなでも、毎日同じことを続けるのは苦痛です。6歳児ですから、やむを得ないと言えば、やむを得ません。
ならば、課題とは「させるもの」なのでしょうか。

 学校教育は、習うべき内容と習う時期が決まっていて、毎日のスケジュール(時間割)も決まっていて、「それ以外」がありえません。

 かたや、ホームスクーリングには、そういうものがありません。自分で決めてその通り実行することはできますが、そうするかどうかは自分の選択です。

ホームスクーリングにも、いろいろな考え方があり、スタイルがあります。
1.カリキュラム・スケジュール・目標を設定して、そこへ向けてがんばるやりかた
2.子どもの自主性にまかせ、やりたいと思ったことをさせるやり方

1を管理型とすれば、2は自発型となるでしょう。
1は「子どもはほっておくと勉強なんかしない」という前提に立ち、2は「子どもは無限の可能性と意欲を持つ」という前提に立っています。
大人から見ると、1は「子どもを指導する」のであり、2は「子どもを信じて支える」のでしょう。

1は典型的な学校教育であり、2は典型的な(学校否定型)オルタナティブ教育でしょう。
世の中の多くの人は、2が成立しうるとは信じられないようです。
しかし、そのことが子どもを追い詰め、可能性を狭め、創造性や自主性を阻害していることに気づかず、不登校「問題」を深刻にしてしまっているのだという、(学校否定型)オルタナティブ教育にみられる主張は、正しいと思います。

私自身は、どちらかというと、2の考え方に近いです。しかし、「2が正しいのだ」と断言しきることにはためらいがあります。
子どもとは、教育とは、単純に割り切れるものではなさそうです。
その意味では、単純に割り切ってしまおうとする学校教育のあり方には、危険を感じます。が、いっぽうで、強く学校教育を否定してしまう考え方にも同様の危険を感じます。

勉強は、させるものではなく、するものであることが理想です。このことには、だれも異論がないでしょう。問題は、子どもが自発的にするかどうか。ここをどうにかできないと、「理想はそうであっても現実は・・・」となってしまいます。

が、日本の教育が創造性、論理力、マネジメント力、独創性、プレゼンテーション力といった、まさに「21世紀に必要な能力」を養成せず、時代から取り残されていることは、怖ろしい現実です。
このことは、さまざまなところで指摘され、論じられています。

学校教育が、今のままでいいと考えている人はあまりいないでしょうが、学校教育のどこに問題があるのかという認識は、人によって大きく違うようです。
私は、「勉強はするものか、させるものか」にあると見ています。
公共性、愛国心、社会性、家庭、地域といった、昨年の教育基本法改正で重視された事項は、けっきょく、「するのか、させるのか」という問題に帰結しそうに思います。

公共性、愛国心、社会性、家庭、地域といった事項が「どうでもいい」と考える人もあまりいないでしょうが、教育基本法改正への批判はそれへの「押しつけ」に集中していたようです。「いいことだけど、押しつけるのはよくない」ということでしょうか。
でも、教育基本法改正に書いてあっても、それが「押しつけ」であるのかどうか、私にはなんとも言いかねます。

少なくとも、教育基本法改正は、ホームスクーリングを否定していないし、むしろ奨励しているようにも読めます。親が責任を持って子どもに対するなら、ホームスクーリングはその最たるものです。親が責任を持って子どもに対するなら、国は親に対して、公共性、愛国心、社会性、家庭、地域を子どもに強いるよう、親に強いることが可能でしょうか?

公共性、愛国心、社会性、家庭、地域は大事にすべき事柄です。それらに対して、親と子が主体的であるなら、何の問題もないはずです。
「するものか、させるものか」、このことをじっくり考えてみたいです。

2010年1月

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