童仙房開拓 百年の歴史


【沿   革】


(1)地名の起源(大河原の里由来記の一節)
 道千坊鷲巣山法道寺愛染明王、人王30代敏達天皇の14年商都元興寺落慶の時、山城の国井手に住む者参会して恵智上人(原書には荘人)より仏法伝授を受け大伽藍建立を志して其地を尋ねて諸所を巡遊す。大河原の里に来りて、一夜弓矢御殿に泊る。不思議にや戌亥の方に金光を認め翌日西北の高台に登りたるに俄に天より紫雲棚引き16才許りの童子現れて、
「汝徳行なり我に釈天より天降りたるものなり。其地に伽藍を創立し給え。」
と言い直ちに消えたり。即ち此の地に大伽藍を営む堂千房を設けたる故、土千房と呼びたり。桓武天皇の御宇延暦10年より20年まで藤原是公郷岩岸照門刑部太郎等度々往けり。此地土房に天地門とて大門あり。其門付近に早瀬女という女あり。其早瀬を刑部太郎が契約して一男を挙げたりする。其の一男を太郎照元と言う。女あり。其早瀬を土千房検微遺使となしたり。人皇52代嵯峨天皇弘仁元年早良太子の霊鬼是公郷連枝太郎照元の住めるを憎み村内へ崇りありける故一村の氏神として六所現いつきまつりたり。第一早良子、第二伴与親王、第三藤原夫人、第四刈田丸、第五橘花逸、第六火雷神、其御尊、六神あがめ奉りたり。承和10亥年極月7日村民集合して岩岸照門刑部太郎の子孫の住めるを悪み極月7日の朝土千房へ火を放ち大伽藍坊舎とも全く焼み払いたり、金堂納有の千体仏のみ大河原茶場へ持戻りたり。(元禄2年3月3日写す、中村博霞とあり)
 現今童仙房を古書によると「堂千房」と記し又「堂千坊」と書き「土千坊」「童千坊」「傍千坊」「道千坊」「道宣坊」等様々なるが、区域内の地名及び付近にある稚滝、三太夫池等々より想いて、以上の古文の内容を思い合すれば自ら肯首されるものがある。尚千体仏は隣区野殿(往寺茶場と称 えしか)福常寺本尊として現存する。

(2)往時の概況
 当童仙房は前記地名についての古文伝説と共に其の後においても其の生いたちに世人の注目を浴びているところである。往時の略図としては三郷(野殿、笠置、湯船)論争地図が諸訴訟文と共に残存している。(西村三郎氏所蔵)  地図 六畳敷大のもの二枚、全部色彩図一枚、境界協議決定図一枚、童仙房のみ白地図のもの一枚、正徳4年甲午6月とあり(西暦1714年)三枚共三郡年寄議決の氏名捺印がある。  ニ藩及御料久しくそれぞれ童仙房地を自己所領なることを争ったと所謂三郷論争地と称している。正徳4年甲午6月遂に和協なり何れにも所属せざる土地として境界を定め、越えて7月童仙房地域を一種の緩衝地帯として白地図に残した。而して年1回三郷年寄一ケ所に会合して其年内に於ける行事の協議を行なったと云はれる。現今三会石に地名と遺跡があり。当時の遺書中にも「上戸は酒を振舞い下戸は餅をこね言々。」とある。然し乍ら其後三郷住民中協約を破る者多く現に当時の訴文の多くが残る如く、論争たゆることなく明治の御代に及んだ。

(3)明治の開拓
 明治の政体となるまで何れの所領とも判決つかず其間久して雑木繁茂し野獣の潜匿して日夜境外に出没し田畑を荒すもの多く人民憂患の限りなく如何ともなし得なかったが、明治の御代になるに及んで、領地の論争は熄んだ。そこで府庁は此地を開墾して士族を転住せしめ以て農産を授ける様大蔵省に申出許可を得た。
 明治3年2月府官吏市川義方に命じて開拓方を担当せしめた。市川義方感激して開拓事業に努力し明治4年7月略完成した。然るに其後士族転住の儀取り止めとなりたる為に方針を一変して、京都市及び群内の人民中有志の者を募りて此の地の住民とした。食を分け農具を与え農事指導をなし耕地及び山林は殆んど転住者に分ち与えた。明治4年10月、戸数136戸の移住完了、水田22町歩余、畑地115町歩余、茶園60町歩余と他に雑畑55町歩余、合計約140町歩の開拓を完了せしめたのであった。
 かくして神宮を勧請して又寺院を建立し、学校建築等各種事業を完成し、当時総人口500人に及び郵便局あり各種商店あり旅館ありて高原童仙房の地も茲に於て面目を一新したのであった。時に開拓後間もなく其の中心地四番に京都府童仙房支庁を置かれた。現存する役所池の北側一段高き広大な役所跡には当時玄関正面に大桐紋を掲げ役人詰所官吏住宅区長詰所等あり、又別に警察署もあり官吏7名巡査(当時の捕防手)6、7名常勤し相楽綴喜の2群の租税等全群支庁に納入せられた。
 尚当時の府知事は正三位長谷川信篤氏にして開拓の企画は正六位権大参事後の府知事植村正直氏であった。

(4)其の後の我状況
 前記の如く大規模に開拓せられ城南に於ける一文化の中心地として繁栄したるも時勢の変遷と共に支庁廃止となり純農村となった。従って一時は200余戸を算えた当地域の住民も次第に減少の一路を辿り、かてて加えて交通の不便、農作物実収量の僅少、文化の都市集中等の影響を受けて離村するもの多く一時は40戸を算するに過ぎなかった。ところが終戦後再び京都府の開拓計画が取上げられ童仙房の西部及南部に於いて総面積104町歩(約1.1km2)の山林を国庫に買収し20数戸の開拓者を移住させ土地を売渡し営農に関する適切な指導を与えられて現在開墾に努力しつつある。
 小学校は明治開拓当時役所池の北側に役所に隣接して建設されてより一時は「ないおん寺」本堂を使用したこともあったが其後明治35年隣区野殿校と道宣校とを合併大河原小学校分教室として大字野殿小字折尾と大字童仙房小字三郷田の境界線上である現在地に建設され、生徒の増加と共に昭和17年12月に同所を拡張校舎を新築された。終戦後新学制が布かれ、六三制を施行されることになり当地に笠置中学校野殿童仙房分校の設置をみた。小学校も分校と改められ中学校も昭和27年1月竣工をみるに至った。
 現在戸数も70数戸を算え日々営営として農事に励んでいる。真夏と雖も30度を越えず涼風郷に満ち散策の地としても絶好であり、また近くには直下20mの雄大にして荘厳躾と言われる不動滝の景観もある。またかつては大阪鉄道局のハイキングコースに指定されたこともある。
 また文化のバロメーターとも言うべき電灯は東童仙房の一部に昭和10年頃より点灯されていたが8番以西の殆んどが無灯地区として文化から遠ざけられていた様で昭和22年8番が点灯され引統き部落民の熱望によって計画、約200万円の区民の出資と努力によって昭和23年2月15日目出度く全部落に点灯されたのである。
 其後、昭和28年8月南山城水害により唯一の山城谷道路(大河原一童仙房一和束線)も決壊し、田、畑、山林にも相当の被害があり区民も憂慮の日々に明け暮れ、一時は区民の人々の中に離村の空気もあったが、郷里への愛着はやます着々復旧に努力され、山城谷道格の改修完成とともに、現在ではほとんどの家庭が自動車をもち、営農も機械化され、昭和33年公社、電話、昭和34年には有線放送電話開通と時代の流れとともに文化のとり入れもはげしく、村道大河原、東和束線主要部分、童仙房旧道線、童仙房多羅尾線、人家密集地帯の舗装も完成し、この地も発展の一途をたどっている。



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