争いの中にあって、だれのものにもならない、白地図でした。 そりゃ、そうでしょう。 なんたって、税がかからんのですから。 まわりには、3つの藩がありましてな、お互いけん制しながら境界を保っとったようなぐあいで。 いまも、小学校の裏あたりを「三郷田」と呼ぶでしょう。 あれはな、3つの郷が寄って話し合いをしたから、そう呼ぶようになったということです。 もっとも、開拓前でも、こっそり「白地図」に入ってきて内緒で田をつくっとった人もおったようでしたが、開拓と同時に引き払いましたな。 明治になりますとな、政府、というのは京都府のことですが、政府が、「童仙房は白地図である」と皆を納得させて、開拓地とすることにしました。 なんせ、食糧事情が悪かったもんですから、武士たちに食糧を作らそうとしたんですな。 でも、最初は武士たちを移住させる気でしたが、武士たちというものは、言うことをきかんし、土地をつくったものの、政府の方針が変わってしもうたんですわ。 けっきょく、百姓か、百姓みたいな人たち以外は来んかった。 政府は移住者を一般から募集したところ、京都周辺から応募がありましてな、といっても、すぐとなりの和束からの希望者が多かったんです。 なんで、となりから移住するかって? そりゃ、あんた、自分で開いたら、タダで山や畑をくれるんですよ。 しかも、和束の人たちは、地形を知ってるから、最初っから条件のいいところを取りました。 いっぽう、百姓の心得のない人は、どこでも得心して入ってきましたな。 京都府が開拓したもんですから、京都に近い方から「一番、二番、三番・・・」と地名をつけまして、いまも、そう呼んどりますな、正式な地名より、こっちの方が通りがいいくらいで。 ついでに、川の流れと関係なしに、京都に近い方を「上(かみ)」、遠い方を「下(しも)」と呼んで、私なんか、子ども時分、こっちが川上やのに、「下(しも)の人」と呼ばれてて、「なんでやろ?」と不思議に思うとったもんですわ。 童仙房のとなりの野殿の福常寺に納められた千躰仏は、童仙房から渡ったものだとここらの書物には書かれてますが、調べてみると、ちがうんです。 童仙房という地名が、そもそも不思議でして、むかし千のお堂があったとかいう話も伝わっとりますが、そのへんから生じた誤解でしょう。 野殿の千躰仏は、柳生藩から寄付されたものです。 童仙房には不動の滝という大きな滝があります。 明治の初め頃までは、どっかのえらい坊さんたちが修行しとったらしいです。 滝の横の岩場に彫られた不動さんはだいぶ古いもんですなぁ。 開拓なんかより、ずっとずっと昔でしょうな。 その記録は残ってないので誰が何のために彫ったものか、どうにもわかりませんが。 そうそう、私が若いころ、大峰山に行ったら、そこのえらい坊さんが、童仙房の不動の滝へ修行に来たことがあると言ってはったんで、驚いたことがあります。 不動さんとならんで信仰の対象だったのは、童仙房と笠置(かさぎ)の境目にある「三台(さんだい)」でしょうな。 三台の池には小さな祠があります。 ひでりが続いて水がたらんようになったとき、信楽や笠置から雨乞いに来はったんです。 「神さんを怒らせたら雨が降る」とゆうて、人骨を池に、もちろんないしょで投げ込んでたそうです。 そんで、雨をもらったら、お礼に鯉を放しに来たんです。 いまでも、その池には大きな鯉が泳いどるはずです。 その昔、笠置の有市に「二滝三台(にたきさんだい)」さんという侍がいましてな、この人が水の少ない有市に、低いところから高いところへ水が流れるという「さかさま川」をつけて、亡くなったあと、水の神様として、三台の池に祀られたという話です。 せやけど、私、こっそりご神体をのぞいたことがあるんですが、祠の中に祀ってあったんは、侍ではなくて、ヘビの抜け殻でしたわ。 | |
童仙房には、不動の滝の他に、稚児の滝と乳母の滝があります。 後醍醐天皇が、笠置山で幕府軍に敗れたとき、笠置山を下りて、北東に接する童仙房へ逃げ込んだそうです。 そのあと、北西方面の和束へ抜けて、犬打峠を越えて井手町で捕まりました。 童仙房へは、幼い皇女さまを乳母が抱えながらついて逃げたんですが、逃げ切れなくなって、皇女さまを滝へ投げ、乳母が、自分も同じ滝ではおそれ多いと、別の滝へ身を投げたそうな。 悲しいことですな。 童仙房のお寺は浄土真宗のないおん寺ですが、明治の初めに京都の廃寺の仏像をもってきて祀ったようです。 おおもとは、東本願寺、西本願寺と、分かれているのに、童仙房では、東も西もいっしょです。 おおらかに暮らしてます。 |