ものごとを考える筋道が「論理」なのですが、論理の採り方にはいくつもの様式があります。その詳細を述べることは本題ではありませんし、私にそのような技量もありません。ここでは、ごく一般的な2つの概念を取り上げて対比させてみます。(下のモデル図はトライエレメント思考法を参考にさせていただきました)
形式論理学におけるもっとも典型的な演繹的推理で、前提となる2つの判断(命題)から、その判断の形式だけにもとづいて結論となる第三の判断をみちびきだす推理です。
何ゆーてんのか、わからんかもしれません。右の図を見てください。
1.大前提 すべてのMはPである。
2.小前提 SはMである。
3.結論 だから、SはPである。
具体例で言うと、
1.すべての人間は死ぬ。
2.モモは人間である。
3.だから、モモは死ぬ。
##えらいこっちゃ!! どうしてもわては死にますのか?
単純明快で論理的に見えますが、おうおうにして、暴論を導いたりもします。
1.すべてのテロリストは悪である。
2.フセイン政権はテロリストである。
3.だからフセイン政権は悪である。
(フセイン政権がテロリストであるという証拠は? 証拠なしに攻撃するアメリカはテロリストではないのか?)
三段論法が暴論につながりかねないのは、現実の一断面を切り取って固定化するという側面があるからですが、それはまた、科学の基礎でもあります。
三段論法に対して、弁証法があります。かなり古くからその芽はあったのですが、集大成したのは、18-19世紀のヘーゲルです。この世界のあらゆるものは運動し発展変化するという視点をとり、二元的な対立を克服しようとします。つまり、現実は対立・矛盾だらけであり、対立を際だたせることによって変化するという考えです。三段論法が静であるのに対し、弁証法は動ともいえるでしょうか。
弁証法の例として
1.太陽は地球を引力で引く。
2.地球は慣性で飛び去りたい。
3.結果として楕円軌道を廻る。
弁証法は植物の生長にもなぞらえられます。
1.植物の「たね」は種という状態で安定している。
2.種から芽が出ることで、種は否定される。
3.そこから花が咲き、また多くの種子ができてくる。
相反するものから、新たなものが生じるという発想です。ただ、そのことから、政治体制に利用されたりもします。ここでの説明は、政治体制に無関係であることを宣言し、一般概念にとどめます。
既存の科学は、三段論法で語られることが多いです(とくに教科学習では)。そうすると、対立を生みがちで、しかも、対立を克服できず、対立を固定化しがちです。
こういう両極端の対立の構図って日常的に頻繁にありますよね。でも、どうしてもその構図をなかなか乗り越えられず、時には力で、時には数で、時には口で、またはさまざまな形でどちらかをとってもう一方を排するという結論を導きがちですね。そのたびに、むかし読んだ本を思い出します。
過疎の村の学校統合問題をテーマに掲げる書で、統合派と反対派のさまざまな見解を紹介しつつ、村のあり方、教育のあり方を考えています。そのテーマは、いままさに南山城村が、そしてわが家が直面しているものですが、双方の論点は、今から見るといささか懐かしき過去を想いおこさせ、「そんな時代もあったなぁ」と、現在とのギャップをあらためて感じさせます。それほどまでに、ここ10-20年の時代の変動、教育の変容ぶりはすさまじいのです。(が、現に南山城村で、20-30年前の教育観がそのまま語られており、つまり教育の現状を見ずに議論されていて、じつはそのことが最も根の深い問題ではないかとも感じたりします)
話を戻しますが、筆者のもとへ、高い理想と理念を掲げて農業を志す若者が来たそうです(そういう若者、いまなお、多いです。私のところへも、おおぜい来ます)。筆者は、逆説めいた、やや否定的な、つまり「それは現実離れだ」というようなコメントを返し、若者の志をくじきました。筆者は、反省しつつ、次のように結んでいます。
わたしの友人にも、農薬を使わない農法の研究にとり組んでいる者もいる。こうした人たちの動きを、わたしはけっして否定などする気はなく、かの青年にも「君は若いのだから、やりたいことは何でもやってみた方がいい」とはげましてやったのだが、その中味には何かが一本欠けているような気がしてならないのである。それは何か。もちろん妥協ではない。調和なのではないか。
当時学生だった私は、「あれかこれか」でなく、「調和」という選択を、とても新鮮に感じ、今なお私のキーワードのひとつとなっています。「二項対立、是か非か」では、先へ進めないのではないか。そして、時代が多様化、複雑化し、世界中が連動しあう世の中となれば、まさにそこには、「調和」しかあり得ないのではないか。25年前の書籍が描くベクトルが、輝いて見えます。
調和を志向する発想は、弁証法に通じるでしょう。それは、中途半端な妥協ではありません。「正」と「反」をあわせて、さらに高次へ発展させようとするものです。既存の産業が行き詰まりを呈している近年、「ベンチャービジネス」がさかんにもてはやされます。ベンチャー=冒険ですね。既存の発想・手法を打破して、新しいものを創造していこうとするわけです。そのベンチャーに関して、起業精神、あるいは企業戦略、あるいは経営理念として、弁証法がよく引き合いに出されます。すなわち、ベンチャーとは、無から有を創造するのでもなく、既存の仕組みを捨てて新規を創造するのでもなく、既存の仕組みを新しい発想で組み合わせて新規を創造するのです。
この、ベンチャーの思考法は、まさにあらゆるジャンルにおいて、これからの時代に重要なものとなっていくでしょう。
悲しいことに、いまは、「アメリカ+イラク=戦乱」ですね。というか、過去において、おおむねいつも、相反する2つのものが出会うと、そこには、争乱が生まれました。ほんとうに、そうしか解決策はないのでしょうか? このような、愚かな思考をつづけていて、私たちはいつまでも生き続けられるのでしょうか? 弁証法で、こういう解を導けないものでしょうか?
もちろん、教育においても、三段論法的学習のみならず、弁証法的学習も重視していかねばならないでしょう。願いたいものですね。「アメリカ+イラク=多元社会を基盤とする和平」を。