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60年後も通用する教育を始めよう!!−野殿童仙房小学校私設応援団−

今は時代の転換期、地動説が天動説をくつがえすかのごとし

競争社会の終焉と、ネットワーク社会の出現

競争が発展に結びつくか?

小学校統合推進の根拠のひとつに、「子どもの数が多い方が競争が生まれ、学力が向上する。子どもが極端に少ないと、荒波にもまれず、学力が向上しない。社会から取り残される」というのがあります。私が子どもだったころは、知識偏重、偏差値輪切り、学歴信仰、詰め込み教育などといわれ、確かに競争が推進されていた時代がありました。

そのことで、画一的とか、応用が利かないとか、人間味がないとか、学力が低下しているとか、批判がありました(今よりはるかに習う内容が多く、ガンガン詰め込まれた時代でも、「学力低下」が言われていたことに注目)。

人間は競争によって切磋琢磨し、向上していくと、よく言われます。弁証法でも、正と反の対立によって合が生まれるとするので、競争とか対立とか確執とかいうものは、あながち否定すべきものでもないと思われます。しかし、競争は、向上のみをもたらすのでしょうか?

たとえば、教育に限ってみても、行きすぎた競争がもたらす弊害として、落ちこぼれ、エリート意識、不適応、結果のみを求める、物質至上主義、数字崇拝、自分さえよければ、また、競争へのはけ口として、いじめ、暴力・・・。競争が活かされるケースと、仇になるケースは、どこに違いがあるのでしょう?

向上する競争とは?

勝つことを目的とせねば競争ではありません。しかし、勝つことのみを目的とすれば、競争は歪みます。たとえば、スポーツなんかで、過酷な練習を乗り越えて、非常に高度な技術を競い合い、勝負がついたとしても、当人同士も、見ているものも、すがすがしく、感動さえ覚えます。彼らが戦った相手は、いったい何でしょう? じつはそれは、「自分自身」ではないでしょうか? 競うべき相手は、他人でなく、自分自身。だからこそ、そこに向上が生じるのでしょう。自分自身と競わず、他人と競うのみならば、向上などありうるでしょうか?

「自分自身と競う」ことをあまり強調しすぎると、精神主義だと批判されそうですが、競争が向上を生むというからくりそのものが、精神の働きに他なりません。精神の作用を無視することは、上で見た競争のデメリットに通じます。精神ですべてが解決するわけではなく、物質ですべてが解決するわけではなく、その調和こそ、大事なはず。

21世紀は、ユークリッド幾何学や知の構造化プロジェクトで見たように、20世紀までのパラダイムが通用しないことは明白で、三段論法にも通じる競争原理は脱ぎ捨てねばなりません。といっても、20世紀までのパラダイムを、競争原理を排除するのではなく、新たな枠組みの中で活かしていくという視点が肝要でしょう。

ネットワーク革命

インターネットに早い時期から取り組み、インターネットを生業としている私たちが言うと、強い拒否反応を示す人もいるのですが、インターネットが世界を変えるでしょう。というか、現に、変えつつあります。私たちが早くからインターネットに注目していたのは、便利とか、流行とかではなく、まさに次世代を形成していく基盤であると強く感じたからです。

みなさん、ご承知のとおり、インターネットは、世界中を、個人対個人のレベルで、くまなくつなぎます。ネット越しのつながりは、人間味が稀薄だとの批判もありますが、国、民族、年齢、性別、肩書きなど、表面上の属性を問題とせず、ほぼ対等に近い人間関係をもたらします。

私たち夫婦も、ネットで出会い、結婚に至ったのですが、ネット越しだからこそ、相手の素性(外見ではなく心)がよく見え、心底理解し合った上で、結婚しています。とうぜん、結婚後も、おたがいの理解が損なわれることなく、さらに幸せを築いています。知人にもネット婚は多いのですが、おおむね、一般婚より仲がいいです。

インターネットは、行政、企業、個人の力関係を劇的に変えます。大きな組織も、個人も、ネット上では対等の存在と言っていいでしょう。こんなことは、インターネット以外では、ありえないことです。そしてこれは、帰結として、社会秩序、社会の枠組みを激変させることを意味します。

新しい時代は

今が時代の大きな変わり目であることは、世界中でじつに多くの人たちが指摘し、すでに常識とさえいえるでしょうが、「新しい世の中」は、それが実現するまで実感として理解し得ないもので、「変わる」ということが、観念論にも終始しかねません。

しかし、時代の変化は、ある時突然、断絶的に起こるものではなく、古い時代と新しい時代とが混在する時期を経て、確定的に変わって行くものです。そしてまた、混在する時期より前に、予兆というか、新しい時代の芽生えが必ずあるに違いありません。古い時代にあって、新しい時代の兆しは、「古い時代に適応せぬ異端」であろうと、容易に推測されます。

今はすでに、「混在の時期」に突入しているでしょう。1990年代後半、不景気が加速し、「国家破綻」が現実味を帯びてきたころから、混在の時期に入ったと考えてもいいかと思います。それはまた、インターネットの登場とも、時期が重なります。

混在の時期にあって、「新しい時代側のファクター」は? 第一にインターネットでしょう。インターネットを、単なる技術、通信手段とせず、もっと大きくとらえるなら、非ユークリッド幾何学や弁証法と通じるところがあり、知の構造化にも実現の可能性を与えると気づくでしょう。近年のキーワード、「持続可能な社会」「ホリスティック」「多様性」「交流」「ネットワーク」「有機」「スローライフ」「スローフード」などは、インターネット的なあり方を彷彿とさせます。

他と競争し、他を蹴落とし、勝ち残っていくというスタイルは、じつに古くさいです。いや、そうしたい人(企業、行政)は、そうしていればけっこう。彼らがネットワークに参加することはないでしょう。勝ったつもりが、気づけば蚊帳の外。新しい時代に参加したい人たちは、すでに、「つながり」を求め、ネットワークに、さまざまな形で参加してきています。IT技術の問題でもありません。世界とつながるために、自己と競争する。弁証法が、そこにあります。

ところで、先ほどさらりと書き流しましたが、「古い時代に適応せぬ異端」で、なにか思い当たりませんか? 私は、「不登校」をまっ先に思います。1990年代初頭には、不登校は「不適応」とみなされました。そして、1990年代後半には、「誰にでも起こりうる、普通のこと」という認識が広がりました(よもや、今なお「不適応」と考える人はいないでしょう・・・)。

じつは私は、学生時代、バブル狂乱を目の当たりにして、恐ろしさを覚え、「こんな時代は永く続かない」と悟り、新しい時代を模索することを意識しました。そして、バブルの波に乗ることを拒否し、違う道を選びました。卒業後、まもなく、バブルははじけました。私は、さらなる混迷の時代を予想し、1992年に、田舎へ移住し、生活基盤をコツコツ築き上げていきました。その過程で、不登校に大いなる関心を抱き、積極的に関わり、勉強させていただきました。詳しくは、次章で書きます。不登校、侮るべからず、と、とりあえずは、申し上げておきます。



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