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60年後も通用する教育を始めよう!!

すでに、新しい教育の萌芽が・・・

登校拒否、もとい不登校という事象−後編−

「登校拒否」→「不登校」

「登校拒否」という表現は、初期に「登校拒否症」などと言われたこととも重なって、当事者にはキツイと感じられ、傷ついた方も多かったでしょう。「学校へ行くべきところを、拒否しとる」というニュアンスがうかがえます。世間が異端の目を向けることを助長していたフシもあります。

登校拒否とひとことに言っても、その様態、考えられる要因、家庭環境、子どもの精神状態など、ほんとにさまざまで、「学校に行っていない」という表面的な事象だけが共通点であるにすぎません。いじめられて、勉強について行けなくなって、なんとなく行きたくない、先生がきらい、学校で心に傷を受けた、学校制度に反発して自主的に行かない、行こうと思うのに体が動かない・・・。これらを同一の言葉で括るには、無理があります。

それなら、単に事象を表現するだけでいいのではないか。「拒否」するかしないかにかかわらず、ただ「学校に行っていない」ということだけを言うなら、「不登校」といった方がいいのではないか。そんな考え方が出てきて、1990年代初頭には、「不登校」という表現がボチボチ使われ始めました。文部省も、積極的にこの表現を使っていました。

私も、「登校拒否」でなく「不登校」と言うべきだと、長らく思っていましたが、あるとき、いじめが原因で学校に行っていない子の母親に言われました。「不登校という言い方はイヤです。うちの子は学校へ行きたいと思っているのに、学校が拒否しているのだから、登校拒否と、はっきり言って欲しいです」と。私は、そのような考えもあるのかと、びっくりしました。その方のケースは、とくに学校の対応がまずかったようで、学校との間に深い溝ができ、学校不信も並大抵のものではありませんでした。

不登校、というか、登校拒否は、奥が深いです。ここでは、不登校の原因や対策には深入りせず、ただ単に事象として概観するにとどめます。事象である以上、ここでは、「不登校」という言葉でいきたいと思います。

文部省の認知

1990年代前半は、登校拒否児・親にとって、苦難の時期だったと思います。世間に理解されず、偏見の目で見られることも多かったでしょう。

その流れが変わるきっかけとなったのは、1992年に文部省が「不登校は誰にでも起こりうるもの」と認識を転換したことでしょう。これは、大変な変化です。それまで、病気扱いしてきたのが、「病気ではなく、ふつうのこと」とされたわけですから。そしてまた、「不登校」という言葉が用いられていることにも、注目していただきたいです。つまり文部省は、1992年の時点で、不登校を問題視する姿勢を改めたと言えます。(少なくとも、表面的には。しかし、公的に)

「あの」文部省が(失礼!!)このような方針転換をしたのは、不登校を治療できない、また、治療すべきでないと認識したのだと言えるでしょう。すなわち、「学校へ戻そう」という方針を放棄したと言えます。さらにその後、フリースクールなど民間施設に通った日数を学校への出席日数にカウントするという、驚愕の方針転換もありました。

この後書きますが、公教育と対立していたオルタナティブ教育を認知したわけです。不登校への認知とともに、この変化は、特筆すべきものです。別の言い方をすれば、不登校問題は、必死の対策にも関わらず、改善どころか、さらに事象が拡大し、文部省としても、お手上げで、対応できない(しなくてもいい)ことの理由付けが必要だし、民間にも協力を求めざるを得ない、ともなるでしょう。

文部省は、いちはやく方針転換しましたが、世間の偏見が改まるには、まだ時間が必要でした。いや、いまなお、一部には偏見が残っています。偏見というのは、「不登校は逸脱であり、マイノリティである」という見方です。しかし、このような偏見を持ち続けている人は、すでに、時代から取り残されている、と私は見ています。なぜなら、現在、おそろしいほどの勢いで世界が変わりつつあることを認識していないという証拠でもありますから。

義務教育という誤解

不登校は、何が問題なのでしょう? なぜに、親も子も、悲壮なまでに苦しむのでしょう?

不登校でありながら、ちーとも苦しんでいない人たちもいます

ほかのケースもあるかも知れませんが、苦しまないための共通点があります。それは、「学校に行かないといけないとは思っていない」ことです。よく考えてみましょう。「学校へ行っていない」という事象は、たんなる事象に過ぎません。それが苦しみに変わるには、正義とか常識とかに反しているという前提があるときです。たんなる事象なら、苦しむことはありません。

不登校を支援する運動においては、「学校に行かなくてもよい」という視点が強調されてきました。つまり、苦しみを取り除くわけです。この視点は、不登校に対するに、絶対の基礎です。しかし、学校へ行きたいのに何らかの障害(いじめとか)で行けない子に対してこの視点を押しつけるのは逆効果のこともあります。「学校へ行かなくてもよい」は、もう少し厳密に、「学校へ行きたければ行けばいいし、行きたくないなら行かなくてもいい。行きたいなら行けるよう、周囲が応援しよう」と言った方がいいと思います。

ここで、「義務教育」という言葉がひっかかります。お恥ずかしながら、私も社会人になるまで、知りませんでした。憲法を見てみましょう。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

よく見てください。教育は、「義務」ではなくて「権利」です。義務というのは、子どもが権利の行使をするとき、親がそれを保障しなければいけないというものです。つまり、子どもにとっては権利、親にとっての義務なのです。「義務教育だから学校へ行かないといけない」というのは、まったくの誤りで、憲法違反にもあたります。すなわち、不登校児を無理に学校へ行かせることは、憲法に抵触するおそれがあるのです。

私にとっては大発見でしたが、先生たちは当然知っているだろうと思いきや・・・、ある年配の小学校の先生にうかがうと、「それは知らなかった」といいます。そして、「たぶん教育現場の多くの先生は知らないのではないか。義務教育を、子どもの義務と勘違いしてるのではないか」とも。ところが、某大学の教育学部の学生に聞くと、「そんなん、常識やん。え? 先生が知らないんですか? うそ・・・(絶句)」。うーん、どちらが現状なのか、わかりません。(^_^;)

ところで、「普通教育」って、何でしょう? 教育基本法にこうあります。

第4条 国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。

うーん、「普通教育」の中味についての規定がないではないですか。ちなみに、学校教育法も見てみましょう。

第17条 小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。

第18条 小学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に勤めなければならない。
1.学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と共同、自主及び自律の精神を養うこと。
2.郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
3.日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
4.日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
5.日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
6.日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
7.健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
8.生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

第18条の2 小学校においては、前条各号に掲げる目標の達成に資するよう、教育指導を行うに当たり、児童の体験的な学習活動、特にボランティア活動など社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の充実に努めるものとする。この場合において、社会教育関係団体その他の関係団体及び関係機関との連携に十分配慮しなければならない。

第22条 保護者(子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ)は、子女の満6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う。ただし、子女が、満12歳に達した日の属する学年の終わりまでに小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了しないときは、満15歳に達した日の属する学年の終わり(それまでの間において当該教育を修了したときは、その修了した日の属する学年の終わり)までとする。

第35条 中学校は、小学校における教育基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。

第36条 中学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
1.小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
2.社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
3.学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。

第39条 保護者は、子女が小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満15才に達した日の属する学年の終わりまで、これを、中学校、中等教育学校の前期課程又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の中学部に就学させる義務を負う。

いったい、「普通教育」って、なんやねーん???? 保護者の義務が書かれているが、これは、子どもが権利行使することを保障するための義務であることは、憲法に明記されています

つまり、法によると、「子どもは教育を選択できる」し、「親は子の選択を実現させねばならない」となります。しかし、これから教育を受ける子が自分にふさわしい教育を選択することは、ふつうは無理でしょうし、そうなると、親が責任を持って、世の中に「普通教育」として通用する教育を子に対して提示しなければなりません。たいがいの親は、そのような提示が困難でしょうから、国家として、最大公約数的な「普通教育」を用意しておこう。これが法の趣旨でしょう。

時代の先取りではないのか?

「普通教育」とはなにか? 国家が用意した教育は、普通教育と見なしてもかまわない教育ではあるでしょうが、それが絶対に普通教育であるとはかぎりません。普通教育というには、時代に合っていること、子どもの心身の成長に有益であること、子どもが将来に希望を持てるものであることなどが、基本要件になろうかと考えられます。

となると、普通教育というものが、子どもによって異なることは必然でしょうし、子ども自身が、提示された教育を普通教育ではないと拒否することはあってもおかしくないです。また、未成年者の育児・教育には、親が大きな責任を負いますから、子どもが普通教育かどうかを判断できない部分を親が補って判断することもあり得るはず。でなければ、「教育を受ける権利」も「教育を受けさせる義務」も成立しません。

さて、不登校はどうでしょう?

どのようないきさつで学校へ行かなくなったかにかかわらず、学校へ行っていないことは事実ですし、それはすなわち、国家が提示する普通教育への疑問でもありましょう。私は、現実に多くの不登校児に接してみて、「普通教育への疑問」という積極的な意味づけを思わずにいられません。不登校は、よくないできごとではありません。苦しんでいる渦中の当事者にそのような言い方は軽率であることは承知しています。「よくないできごとではない」のは、社会から見ての話です。

不登校が年々増え続け、打つ手なしという状況は、「普通教育」が間違っている、あるいは時代の要請からずれていることを認識すべし。そういう警鐘に受けとるべきでしょう。すなわち、不登校という事象をじっくりフィールドワークし、分析し、考察することは、次世代の教育を考える上で、貴重な示唆を提供してくれるのではないか。私が不登校に強い関心をもった理由は、まさにそこにあります。

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