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60年後も通用する教育を始めよう!!

すでに、新しい教育の萌芽が・・・

オルタナティブ教育−旧時代(20世紀)には異端であったが・・・

公教育は絶対的なものなのか?

不登校の問題を通じて、「子どもは学校へ行かねばならない」根拠はないこと、そして、「子どもは学校へ行かねばならない」という「迷信」の故に、諸問題が生じ、こじれていること(少なくとも不登校は)、この迷信を何とかしなければ次世代へ教育をつないで行けそうにないことを、概観しました。こういうと、私が学校の存在を否定しているかのように受け止める方もいそうです。

すべての国民に、一定レベル以上の教育を国家が保障していくことは、これからどんなふうに世の中が変わろうとも、おそらく大切であるに違いありません。でないと、文明社会を維持することが不可能です。そのためには、「学校」に類する存在が不可欠です。しかし、多くの人が同じ方向を向いて成長を目指す社会が終焉し、世界中のノード(要素=国家とか、企業とか、個人とか)が対等につながったネットワーク社会へと移行していくなら、教育も当然多様でなければいけません。

決まり切ったことを学ぶだけでは、これからの世の中を生きていけません。むしろ、調べればわかるようなことは、むりに覚えなくても良い。覚えるための努力よりは、調べるノウハウの向上を目指した方が、はるかに効果が高い。あふれかえる情報の中から、自分の必要なものを的確に探し出し、それらを創造的に組み合わせて、未知の世界を開拓し、それをまた、ネットワークへ還元し世界中で共有していく。それが、これからの「知」のあり方でしょう。

学校はこれからも必要だが、変わらねばなりません。そしてまた、学校のあり方も多様化せねばなりません。学校が絶対的な存在であったのは、すでに昔話です。

もうひとつの教育

時代が変わるとき、そこには新しい時代の萌芽が、ささやかに、そして力強く芽生えます。公教育がどう変わっていくのか、それを考えるためにも、ヒントを「公教育以外」に求めてみましょう。

モデル図

学習塾は、公教育か、もうひとつの教育か、微妙なところです。学校を補完する役割をもつ塾なら、公教育と言えますが、学校と別のカリキュラム・内容をとっている塾は、もうひとつの教育と言っても良さそうです。念のため申し上げますが、私は公教育ともうひとつの教育との良し悪しや優劣を論じるつもりはさらさらありません。これからの教育を考える手がかりとして、便宜的に色分けしているだけです。

もうひとつの教育としての塾とは、どのようなものでしょうか? 学校など眼中にないといった進学塾、あるいは、ユニークなカリキュラム(学校とは異次元な)の学習塾でしょうか。学校の勉強がわからない子のための塾は、公教育の補完と考えられます。

つまり、公教育的な学習塾は、学校の教育内容・カリキュラムに準拠することを基本とし、もうひとつの教育的な塾は、独自のカリキュラムを有していると言えます。「もうひとつの教育」の定義は、「公教育とは別の、独自の教育観やカリキュラムを有していること」と考えられます

学校に行かない選択肢

なんのことはない。もうひとつの教育とは、世の中にふつうに存在しているものではないですか。「習い事(音楽とかスポーツとか習字とかそろばんとか)」は、その典型でしょう。別に学校のカリキュラムを意識しているわけではありません。が、「学ぶ」という要素がある以上、立派な教育です。ボーイスカウトなんかもそうですね。これらは、学校とは別の「学び」でありながら、学校と共存しています。

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1980年代後半から、ちょいと様相の違うカテゴリが生じました。それ以前からあったことはあったのですが、世間で脚光を浴び始めたのがその時期です。不登校ですね。学校へ行かない(行けない)子たちをどうするか? 民間のフリースクールが、たくさんできました。

もともとフリースクール運動(フリースクールには様々なものがあります。一定のネットワーク的つながりをもったスクールをフリースクール運動と呼びます)は、学校に行くか行かないかと関係なく始まったのですが、たまたま公教育批判の主張を示したことと、不登校のニーズとが合ってしまったことで、不登校の受け皿としての役割を担っていくことになります。すなわち、フリースクールが必ずしも意図したわけではなくとも、公教育との対立構造を鮮明にすることとなりがちでした。このへんについては、次のページで詳しく書きます。

一生涯、学び続ける

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「学ぶ」ということについて、公教育の枠をはずしたときに見えてくるものは、けっして学びは子どものためだけのものではなく、私たち大人にも通用することです。親が子に「勉強しなさい!!!(--#)」というだけの「勉強」って、なんでしょう? その意味するところは、「テストでいい点取りなさい!!」「ちょっとでも偏差値の高い学校へ進学しなさい」と、だいたい同義ではないでしょうか。それは、「学び」ではありません。ゲームにも等しいでしょう。知識の詰め込みがいちがいに悪いわけではなく、ゲームのような試験対策教育がいちがいに悪いとはいいきれません。ものごとを考えたり判断したりするには、土台となる教養が必要ですし、限られた条件で難問をクリアする才能も、生きる上ではけっこう必要です。

しかし、それのみではまずい。実生活ではほぼ体験し得ない「虚数」(2乗してマイナスになる数)を想定することで、いかに公理系(ものごとを考える枠組み)が豊かに広がり収穫も増えるかを、感動をもって体験してこそ、近代文明を学び、発展させていく礎ともなりましょう。虚数がなければ、X2+X+1=0は解けません。

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