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60年後も通用する教育を始めよう!!

Stop!!学校つぶし!!

教育長への公開質問状(2004/7/20)

2004年7月20日朝、教育委員会へ行き、教育長と1時間ほど話した後、以下のような公開質問状を手渡しました。誠意ある回答を期待しています。

南山城村教育長殿

2004年7月20日

 南山城村において、10年ほど前から、教育論なき小学校統合が進められ、理念なき「一村一校」が強引に住民へ押しつけられている。2003年4月、南山城小学校開校に際し、村内4小学校のうち3校は廃校→統合を余儀なくされ、幸いにも野殿童仙房小学校ただ1校が、災禍をのがれ、2004年度においても独立校としての地位を守り続けている。

 2003年度末より、南山城村教育委員会は、住民の意見を無視して統合を強行し、野殿童仙房小学校を葬り去ろうとしている。2004年7月22日、童仙房区の一部役員を集めて説明会を行うとのことであるが、ここで出る意見が童仙房区民の総意でないことは言うまでもない。住民の総意形成のためには、情報を隠したがる南山城村教育委員会とは逆に、情報公開こそ必要で、村長も当初より情報公開を公言するもののいまだ影も形もなく、隠蔽体質は変わらない。

 私は、「統合」には反対しない。私が反対するのは「野殿童仙房小学校の廃校」である。すなわち、南山城村は「一村二校」で確定し、村内の通学区域を撤廃し、すべての村民がどちらかの小学校を選択できるという制度作りである。私の考えを概略述べた後、教育長の見解を伺いたい。私の意見に同意し、野殿童仙房小学校の存続と発展、さらに通学区域撤廃を約束するなら、以下の質問に答える必要はない。しかし、あくまでも野殿童仙房小学校廃校を、というなら、私の意見に対し、アンチテーゼを示されたい。テーゼとアンチテーゼの双方がそろって初めて合理的な思考が成立し、より適確な判断が可能となり、シンセシスとして総意が形成され、結論が導かれる。かくのごとき事由により、私の主張に対する反論・異論を歓迎する。ただし、あくまでも合理的かつ客観的な論理でなければならない。

 この質問状は、7月20日の時点で、少なくとも、文部科学省、京都府教育委員会、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、京都新聞社、南山城村長、南山城村会議員全員、童仙房区長、野殿童仙房小学校長、野殿童仙房小学校PTA会長、南山城保育園保護者会野殿童仙房支部長に公開する。

 回答期限は、2週間後、2004年8月3日、文書によって、私の自宅宛(当日消印有効)とする。公開先へは、回答も通知する。子どもの生涯に多大な影響を与える小学校教育に関わる重要案件であるから、私の質問にかかわらず、平素より研究・討議が、当然のごとくなされているはずである。2週間の回答期限が短いなどということは、あり得ない。質問項目数は多くとも、いずれも最重要基本事項ばかりである。

 万が一、回答なき場合は、合理的教育方針を欠如したことを証明し、一村一校が破綻したことを意味する。または、南山城村教育行政が住民を無視した独裁体制であることを意味する。

1.「ゆとり教育」への評価

 現在の小学校教育の最重要指針は、1984年中曽根内閣における臨時教育審議会答申に端を発し、文部科学省が推進する「ゆとり教育」である。学力低下・学力差別化・公教育破壊を理由に反発も強いが、昨今の社会全般にわたる規制緩和と自由競争への傾斜、グローバリゼーションへの流れ(大企業世界市場主義のみならず、ワールドワイドネットワークという意味においても)を鑑みれば、けっして不当な政策とは言えない。ゆとり教育は、「教えない教育」ではなく「教え方を融通できる教育」と考えるべきである。寺脇研氏もそのような趣旨を御著書にて披露している。私は、ゆとり教育を時代に則した方針として肯定する。教育長の「ゆとり教育」に対する評価は如何。

2.「総合的な学習」への評価

 ゆとり教育と2本柱の「総合的な学習」についても、わかりにくい、学習効果に結びつかないなどの異論が多い。しかし、専門化・細分化された知の横断的理解、すなわち綜合化の能力育成は急務であり、大学でもそのような研究体制が整備されつつある。この命題はユークリッド公理系を超越することを求めているとも言え、多様性、共生、有機、ホリスティック、ネットワークなど、近年の重要キーワードに深く関連付いた、20世紀型文明概念の上位に進化した知的枠組みを社会が要請しているとの視点をとれば、小学校時点で綜合的思考能力の基礎づくりは不可欠であり、「総合的な学習」には大いなる道理がある。わかりにくい、学習効果に結びつかないといった批判は、20世紀型知的枠組みから見てのものでしかない。教育長の「総合的な学習」に対する評価は如何。

3.文部科学省の方針と、村教育行政の整合性

 文部科学省の「ゆとり教育」「総合的な学習」を肯定するか、否定するか。肯定するなら、南山城村教育行政において、どのように実現していくのか。否定するなら、その理由は如何。また、否定する際には、代替教育論を提示されたい。

 野殿童仙房小学校は、少人数であるがゆえ、自ずから個別学習・習熟度別学習、すなわち「ゆとり教育」が実現している。また、少人数であるが故に地域に対しても開放的であり、保育園、高齢者を含めた世代間交流が盛んで、豊かな自然の元、農作業や自然観察が日常的に行われ、高度に「総合的な学習」が存在する。これを廃棄する理由は如何。

4.京都府教育委員会「特色ある学校づくり」への評価

 京都府教育委員会は、「特色ある学校づくり」を推進している。これは「学校教育全般にわたって創意ある教育活動を展開し、児童生徒にとっては魅力ある学校、家庭及び地域社会にとっては開かれた学校を目指し」と、京都府教育委員会発行の『平成16年度 指導の重点』に明記されている。特色とは、マニュアルに基づく一面的な教育とは一線を画し、独創性と学習内容の高次昇華が企図されると考えられ、文部科学省の「総合的な学習」と趣意を同じくするものと想定される。重要な教育課題を、京都府教育委員会が文部科学省よりさらに理解しやすい形で推進する施策であり、まことに意義深い。教育長の「特色ある学校づくり」に対する評価は如何。

5.野殿童仙房小学校は、特色ある学校づくりを行っている

 (1)野殿童仙房小学校は、同校Web(http://www.h5.dion.ne.jp/~nodou/)で紹介するように、特色ある学校づくりに力を入れてきた。地域特産品の茶を研究した成果を父兄・地域住民に発表する「お茶の葉祭り」、隣町の信楽町立多羅尾小学校との交流、米・トマト等の栽培・収穫・加工・販売(経済学習)、韓国の小学校との交流、保育園・地域と一体となった運動会・・・。これらに対する、教育長の評価は如何。

 (2)そして、これらは、守るべきか、壊すべきか。助役は、野殿童仙房小学校のよいところを南山城小学校へ持って行けと言うが、文化や風土に根ざした教育はモノではない。持って行けと言うなら、持って行くべき手法を示すべきである(それは非現実的であろう)。

 (3)また、今年の韓国交流を縮小・廃止させる動きがあるが、教育長は韓国交流の意義を肯定するか、否定するか。否定するなら、その合理的な理由を。肯定するなら、妨害勢力の排除又は阻止、事業の支援を約束されたい。

6.論理の破綻した「財政事情」

 南山城村の逼迫した財政事情が、小学校統廃合の大きな理由と推定されるが、統合前の4校を合わせたより3-4倍(あるいはそれ以上)高い維持費(電気代、掃除代、とりわけパソコン関連は非常識)は、財政破綻を早めるための統合と表現することが妥当である。財政事情を統廃合の理由に掲げることは論理の破綻である。

 財政事情を関連させるなら、南山城小学校を廃校にして4校に戻すか、南山城小学校を廃校にして野殿童仙房小学校に統合するのが当然の道理である。それが不可能なら、財政事情を関連させるべきではない。教育長の見解は如何。

7.少人数が不利という妄想

 統合の利点が語られる際、「子どもの数が少なくなる」ことを非とし、「児童数を多くにまとめる」ことを是とする論調が見られるが、論点を整理すれば、あいまいな感情論であることに気づく。

(1)少人数では社会性が育たないという妄想

 いっけんもっともらしいが、「子どもの数が少なくては社会性が育たない」と言われる。では、社会性とはなんぞや?

 定義づけることの難しい、あいまいな用語である。一般的なニュアンスから類推すれば、「大勢に身を任せる付和雷同を是とする」あるいは「自と異なる個を尊重し共生を創造する力」と考えられるが、この両者の隔たりは大きい。付和雷同型の社会性であれば、たしかに、人数が多いほど有利である。ただ、これが、子どもにとって人生の糧となるかどうか。これを望むか否かは人生観であるので、是非は論じられない。

 共生型の社会性であれば、人数の多少は問題ではなくなる。なぜなら、異質な個の受容の仕方が問題であって、異質な個は同級生であろうと、高齢者であろうと、先生であろうとかまわない。クラスメイトが多いということは、受容すべき異質な個の異質さの度合いが小さいとも言える。ならば、逆説的に、少人数学校の方が、共生型社会性を学ぶ機会が大きいとも言える。

(2)少人数では競争が少ないという妄想

 まことしやかにささやかれる競争原理であるが、同一の規準において切磋琢磨し、向上を目指すというスタイルは、じつは古い。その証拠に、競争型大企業の凋落、学歴社会の崩壊などを見ればよい。

 競争原理が成り立つのは、社会が拡大のベクトルにあるときである。拡大の余地が少なくなり、限られたパイをシェアすることが要請される社会にあっては、勝つか負けるかの競争ではなく、異質な個と連携する柔軟さこそ重視される。競争したい者はすればよいが、おそらくドンキホーテであろう。

(3)少人数では教え合う機会が少ないという妄想

 自分の知っていることをわからない子に教えることで自分の学力も向上する。誰もが、経験的に真実と認められよう。が、教える相手がクラスメイトでなければいけないという発想は偏狭である。少人数であればこそ、教える相手、学ぶ相手は、幼児、高齢者、おじさん、おばさんなど、一気に拡大する。むしろ、クラスメイトと教えあい学び合うというのは、哀しいほど限定的である。

 さて、私は少人数のデメリットを否定し、メリットを見いだしたが、教育長は、児童数の多少をどう判断するか、多大なる関心をもって、うかがいたい。

8.学力の担保

 子を持つ親として、最も気になるのは、「学力」である。「学力低下」と言われる際の「学力」は、試験の点数である。

 落ち着いて考えればこのことの奇妙さに気づく。30年ほど前、偏差値輪切り、紋切り型、詰め込み教育などと批判され、応用の利かない学力、独創性のない学力が問題とされ、試験の点数でない学力を志向して方向修正が行われた。その結果、逆に学力低下が叫ばれている。

 試験の点数のみが学力であるなら、詰め込み教育でよく、独創性も軽視してよい。応用力や独創性を重視するなら、試験の点数プラスαの評価がなされなければいけない。円周率を3とするか、3.14とするかが根源的な問題なのではなく、円周率とは何なのか、円周率を何と組み合わせどう活用すれば新しい世界が広がるのか、それこそが、応用力であり、独創性である。そして、そのことは教科書のみによっては学ぶことができない。与えられた問題(どんな難題であるとしても)を解くだけでは不足で、自ら課題を見つけ、自ら解決していく。その力こそが、新しいパラダイムへの適応であり、生きる力となる。よって、試験の点数は、無視するべきではないが、重視する必要もない。何を考え、何を創造したか。その評価は他人と競うものもあろうが、おおむね、競争になじまない。成長と拡大の時代が終焉したことで、競争至上主義も役割を終えた。評価というものは、究極には、学習成果物、創造物の発表がふさわしいのではないか。

 その意味でも、野殿童仙房小学校は、自然な形で、試験による評価と、創造評価(お茶の葉祭り、交流事業、米・野菜の栽培・販売等)がバランス良く実現している。

 教育長は、「学力」あるいは「評価」をどう考えるか。また、野殿童仙房小学校におけるすぐれた学力担保を廃棄せしむる理由は如何。

9.南山城小学校の教育目標

 2002年秋、南山城小学校開校前に、親が集まって統合問題を話し合った際、教育次長が「統合小学校の教育目標や教育内容は何もできていない」と言った。当初より「教育」というものが欠落したまま統合が進められた。財政難の村は、珍妙な建築(これは主観であるが賛同者も多い)に莫大な金を惜しげもなく注ぎ込んだというのに。小学校は教育の場ではなく、美術館である。村の教育行政はそのような認識ではないか。数千万円かけて導入したパソコンを、難しすぎて使えないと放置している現状は、まさに象徴的である。(金だけの問題ではない。子どもたちがパソコンを学習する機会を剥奪しているという「罪」を認識すべきである)

 開校後にいろいろな理屈をこじつけたところで、しょせん、実態(校舎、設備、教育なき行政)との乖離は埋め難い。有効な回答を期待するのは愚かではあるが、統合先のコミカルな愚昧を明らかにしておく必要がある。教育長に問う。強引に統合しようとする南山城小学校は、どれほど独創的で実効性のある教育目標を立てて実践しているか、提示されたい。また、「南山城村は、すぐれた教育のある場(野殿童仙房小学校)を壊して、教育なき学校に収斂させようとしている」という私の見解を、合理的見地で批判されたい。

10.一村一校の非合理性

 「児童数が少ないと友だちを選べない」という統合推進論は矛盾している。なぜなら、「学校が少ないと教育を選べない」が成り立つからだ。一定の児童数を一校にまとめるより、複数校に分散させた方が、学校も友だち(学校外の活動でも)も選択肢が増える。通学区域があれば、公立学校を選択できないわけだが、統合とは、通学区域の拡大でもある。中央集約型の思想であり、これは、成長と拡大時代の遺物でしかない。ワールドワイドネットワークを基盤とするグローバリゼーションは、分散と連携で成り立つ。せっかく通学区域を拡大しても、中央集約型でこれからの時代に適応できるのか。私は、時代錯誤としか評価し得ない。教育長、反論を。

11.一村二校の合理性

 まったく個性のちがう二校が互いに対等な地位で独立・存続し、通学区域を撤廃することは、それぞれの小学校がさらに個性(個性とは、他との相違点でもある)を伸長させやすい。互いに競争するのではない。よりよい教育を目指して、学校どうしが「協働」するのである。親も子も、自分の人生観・将来目標・教育観などに基づいて、学校を選択する。選択は各親子の責任であるから、児童も父兄も、受け身の教育ではなく、主体的に学校づくりに参加する。通学区域なき一村二校は、まことに理にかなっている。実現可能性はさておき、理念として、教育長はどう評価するか。

12.一村二校の実現性

 小学校の通学区域の弾力的運用は、各地で試みられている。「非現実的な」制度では、決してない。教員配置、通学手段の整備といった考慮すべき課題もあるが、自主選択を基本とすることで、教育行政・学校への不満や要望をある程度軽減できると期待され、また、いじめ・不登校などにも柔軟に対応できる。現行の、「教育委員会を通さないと何もできない」システムは、教育の硬直化と衰退、さらに行政の無用な負担を増やす。規制緩和は世の流れである。遅まきながら、南山城村教育委員会も、改善すべきである。学校の自由裁量を拡大することは、教育の発展のみならず、行政の負担も減らすと期待できる。

 通学区域なき一村二校の実現を最も困難にしている障害は、南山城村政、南山城村教育委員会の怠慢と住民軽視の行政エゴである。教育長、反論を。

13.住民総意の形成

 学校は住民の生活に直結し、子どもたちの人生に大きな影響を形成する。統廃合を含め、学校をどう作っていくかは、住民が主体となってあらゆる方面から検討し、議論を重ねて結論を見いだすべきテーマである。そのためには、行政は積極的な情報公開が大前提で、それなりの時間も要する。その点で、南山城村教育委員会は、まったくと言っていいほど努力をしていない。形だけの住民合意を捻出しようと、つまらぬ小細工はよく努力するのだが。「すべての住民が同じ意見にはならないから、統合しよう」というのは論理の歪曲である。なぜなら「すべての住民が同じ意見にはならないから、統合はやめておこう」も同等に成立するからである。いずれの結論になろうとも、対立意見を持つ者が結論を受容できる段階まで議論すべきである。

 このたびの学校問題における唯一の解は、「通学区域なき一村二校」である。なぜなら、すべての住民のニーズを満たすからである。この解が唯一満たし得ないのは、「行政エゴ」(実績作り、権威の維持増大)ぐらいであろう。

 教育長に問う。住民総意をどう考え、どのように作っていくのか。または、住民無視の独裁を念頭に置いているのか。

14.一村一校という教育の機会不均等

 言うまでもなく、村に単一の教育しか存在しない(しかも、教育不在)のは、教育の機会不均等(南山城小学校でいいと満足する人もいるだろう)を助長する。とくに、私のように21世紀に通用する教育を求める者にとって、一村一校は、南山城村に小学校が存在しないのと同義である。私は、ホームスクーリングか、教育消滅の南山城村から転出するか、いずれかを選択せざるを得ない。

 教育長は、「統合は教育の機会均等」と言ったそうだが、教育現場で長年教鞭を執ってきた経験者の言うこととは信じがたい。児童は感情も理念も思考力もないロボットだと考えているのだろうか。教育長に問う。あなたにとって、「教育の機会均等」とは何なのか。

15.学校教育法第18条に規定する小学校教育の実現

 憲法第26条で、教育とは子どもにとっての権利であり、おとなはその権利行使を支援する義務があると規定されている。おとなの義務の範囲として、教育基本法第4条で、9年間の普通教育が定められる。普通教育の内容は、学校教育法第18条で、8つの項目があげられ、第18条の2で、さらに「体験的な学習活動」があげられている。すなわち、市町村は、すべての住民に対して、8項目+体験学習を満たす普通教育を提供せねばならない。(ちなみに、莫大な予算を浪費して奇抜な校舎を建てよとは、どこにも書かれていない)

第18条 小学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に勤めなければならない。
1.学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と共同、自主及び自律の精神を養うこと。
2.郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
3.日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
4.日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
5.日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
6.日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
7.健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
8.生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

第18条の2 小学校においては、前条各号に掲げる目標の達成に資するよう、教育指導を行うに当たり、児童の体験的な学習活動、特にボランティア活動など社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の充実に努めるものとする。この場合において、社会教育関係団体その他の関係団体及び関係機関との連携に十分配慮しなければならない。

 さらに、時代に合わせた内容とするため、文部科学省や京都府教育委員会が、法令を補完するガイドラインを作っている。「日常生活に必要な」 という内容は、教科書による学習に、総合的な学習を重ねて高次の知的枠組みに適応できる能力を養うよう求められている。法令もガイドラインも高い次元で実現できている野殿童仙房小学校を廃棄するからには、法令やガイドラインを研究しつくし、南山城村としての「普通教育」が野殿童仙房小学校よりさらに高い次元で存在するという前提が必要である。教育長、その「高次の普通教育」を提示されたい。

以上

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