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童仙房物語/童仙房で暮らし始めた

同じ釜のメシ

いおり

間取り
部屋の間取り緑色がハウスの部分

 社長さんが用意してくれた土地に、建物を建てることになるのだが、どんなものにしようかと、考えた。がんばってお金を借りて、一生住める家にするか、仮のものにするか。

 この童仙房で、ちゃんとやっていけるかどうか、自信がなかった。それと、世の中はうつり変わるもの、という意識も強い。一生の家を建てるには、ためらいがあった。10年か20年住めればよい。そう考えよう。

 建物は粗末でもいいが、広さはほしい。そう考えて、簡易なプレハブを建てることにした。部屋はプレハブそのままでよい。しかし、水回りは?これは大工さんにお願いするしかないだろう。もしも、数年で居住地を変えなければならなくなったとしても、ハウスは持っていける。そう考えた。

 その発想は、正しかった。生涯の定住地は、あまり簡単に決めてはいけない。私が知る限り、地元の人たちととけ込み、順調な田舎ぐらしを続けている人でも、3-5年で、その土地に住み続けることへ疑問を感じる。その時、一生懸命購入した土地や家でも、手放すことを真剣に考えるようだ。Iターンは、身軽な方がよい。地元からすると、腰を落ち着けた定住を望むのだが、Iターン者は、腰を落ち着けると、地元との関わりにおいて弱い立場になってしまう。なぜなら、逃げるところがない、逃げないだろうと、思われるからだ。

 私の場合、簡易の建物にしたことは、自分の身を守り、さらに地元の人たちと良い関係を築き上げて行くことに役だった。

 もうひとつ。私が移住したあとで、すぐ隣に別荘的に住み始めた人がいる。自己中かつ不気味な人で、被害を受ける前に離れたいと思った。もし、一生の家を建てていたなら、苦しい生活となっただろう。このことは、あらためて書くことにする。

多くの部屋を持つことの意味

家
これが、その家です

 間取りは、5DK。仮の家にしては、大きめだろう。ここまで必要ないのでは?とも言われた。私は、それを明確に否定する。

 当時は、「グリーンツーリズム」などという言葉は聞かれなかったが、私の中には、「グリーンツーリズム」の発想があった。都会からの移住者が田舎へ定住するには、いくつかのスタイルがある。自分の世界を築き、地元の人たちとあまり接点を持たないようにというのも、ひとつ。

 田舎ぐらしを「世捨て」と受け止める人も、しばしばいる。これにはなんとも、返す言葉がない。世捨て感覚で田舎ぐらしをする人って、実際にいるのだろうか?

 私たち移住者の目の前に厳然として存在するのは、日々の生活である。美しかろうと、汚かろうと、そんなこととは関係なしに流れていく日々の暮らし。私たちは、田舎へ入っても、ふつうは居場所などない。何にもないところから、自分の存在感を築き上げていくものである。先に物語があるのではなく、物語は後で振り返ったとき見えてくるものなのだ。

 田舎へ移住するにあたって、なんら物語を持ち合わせていなかった私は、だからこそよかったのだとも思う。私は、地元の人たちに、並々ならぬ世話をかけるにちがいない。では、私は、地元に対して、何ができるか?

 都会との接点こそ、田舎の人が、都会からの移住者に対してもっとも期待したいものではないかと、私は考えていた。

 どんな形かはわからないが、都会の人たちとの交流の場を自宅に確保しておくことが大切だと思った。

そして、住み始めた

秋深し
山は、秋の色

 9月に土地の造成が終わった。何もないところに家を建てるのだから、井戸がいる。童仙房には、水道がない。すべての家庭が、地下水を利用している。山の頂上なのに、不思議と、水は豊富。小川もいたるところに流れている。自然の恵みを感じる。

 隣の敷地に別荘を建てる予定の人と、共有の井戸を掘った。結果的にこれが、非常に具合の悪いことだった。私も、隣に来る人を一目見て、いやな予感がしたが、正直、その時の予感に従うべきだった。これから田舎ぐらしを考える人には、注意を促したい。あんがい、最初の予感は、大事なもの。

 ハウス部分は、業者が2日で建ててしまったが、残りの部分は、大工さんの手作り。ていねいな仕事をしてくれた。

 私は毎日、大阪からどかたに通う。現場は2ヶ月ぐらいの単位で移っていく。秋が深まり、山の木々が色づくころ、1年前に初めて童仙房へ上がってきたときのことを、思い出す。

 そして、冬が来た。寒い冬の間、現場は、童仙房の北側斜面の林道開設工事。誰も人の来ない、山の中。おもろいおっちゃん(?)ふたりに、紅顔の美少年(...)はおもちゃにされた。仕事の合間に、童仙房のあれこれを教えてもらえたのは、いい勉強だった。

 いよいよ、家が完成した。1992(平成4)年3月7日、引っ越しの日。とはいっても、荷物はあらかじめ、ボチボチと自分で軽トラを使って運んでいた。この日は、ほぼ、体だけの移動。初めて、童仙房に泊まった日。

意外だった歓迎ぶり

 田舎で暮らすのは、地元の人たちとのつきあいが難しいと、よく聞く。私も、少々心配していた。

 しかし、住む前に、9ヶ月もの間、地元の人たちとどかたをし続けたのは、よかった。住むころにはすでに、気心が知れていたのだから。

 私は、迷わず、組入りをした。田舎には、たぶんどこにでも、数件単位の組がある。冠婚葬祭や、日々の助け合いのコミュニティである。組にはいるということは、地元の人たちとおつきあいをさせていただくという意味である。組入りをしない移住者を認めない地域もあるようだが、童仙房は、おおらか。組入りは強制ではない。私はあえて、自分から、地元にとけ込むことを願った。

 童仙房での生活を始めても、疎外やよそ者扱いは、まったくなかった。組の人たちは、なごやかに私を歓迎してくれた。田舎ぐらしのスタートは、この上もない快調なすべり出し。

童仙房の夏祭り
童仙房の暮らし−夏祭り−

 住むやいなや、近所のおうちから、中学生の家庭教師を頼まれた。こんな山の上の子たちも、おおかた塾へ行っているそうだ。親の送り迎えは大仕事。それなら、ぜひ近くでとのこと。こういう展開は頭になかったが、都会からの移住者が貢献できることがらのひとつ。

日々、どかた

 童仙房で暮らし始めても、どかたの日々。大きな失敗もあったが、だんだん仕事に慣れてきて、戦力と見なしてもらえるようになってきた。

 田舎の人たちは、自分がどかたをしていることに引け目を感じるようだが、私はむしろ、自慢だった。童仙房への移住を決めたとき、都会の知人たちは、100人中99人ほどは、「無理や、やめとけ」と言った。実際に童仙房へ行ってしまうと、100人中99人は、私を英雄視した。田舎ぐらしも、どかたも。この劇的な評価の変わり様に、私は田舎ぐらしを斜めに見るようになった。私は、不可能に挑戦したわけでもないし、たいしたことをやり遂げたわけでもない。私の、田舎ぐらしに対する思いと、都会の人たちの田舎ぐらしを見る目は、ちがうところにある。このことは、今後、重要なポイントになっていく。

 私はどかたに誇りを持って、従事した。それは、自分の足で自分の道を歩いていることに対する誇りだったかも知れない。移住前から数えてまる3年、どかたをしたのだが、これは、意味の大きなことだった。私にとっては生活の手段なのだが、地元の人たちと同じ釜のメシを食うことは、田舎ぐらしにおいて決定的に重要だ。

 この3年間がなければ、その後の私も、ない。

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