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あるお坊さんの話

病原菌との仁義なき戦い 2

第3章 人類の岐路

 たかが中耳炎と、正直思う。恐らく大半の人がそうではなかろうか。むろん侮ると、将来に影響するとは言うものの、入院してまでとは誰しも思わないと思う。子供が耳垂れを流すので、病院に行ってみれば中耳炎と診断され、少々厄介なことになったな程度に思っていた矢先に、入院ですと言われ、おまけに少し長引きますと言われる。あれよあれよの展開である。心構えがなかった分、衝撃も大きく、これから続く親としての負担を思うとクラクラしたりもするであろう。なにしろ親は、仕事で忙しいのである。

 日本も諸外国も、先進国と呼ばれる国の親は忙しい。社会全体が忙しい。そして忙しいことが、或いは忙しくさせられていることが、自己の有能性や努力をアピールする事と思われ、更にそれが美徳とまで思われている節が見受けられる。そこに、働かなくては食べていけないと言う理屈が加わる。

 一日中保育所に預けられる子供、学校から帰っても誰もいない暗い部屋で、一人で店屋物の夕食をとる子供、そんな子供達の心の叫びは、親の美徳という鎧を突き破ることはできない。

 会社や仕事にばかり目が向いていた親が、子供の入院をきっかけに無理矢理のように家庭に目を向けさせられる。このときどれだけの親が、心のバランスを失うことなく現実を乗り越えていくことができるであろうか。

 夫婦間で、お互いの意地やエゴやプライドがぶつかり合い、しゃれや冗談ではすまない事態が展開する家庭も少なくないと思う。その時犠牲となるのは、子供である。

 人間社会は物質的に豊かになり、もはや電気のない生活は考えられない。テレビで様々な情報を得ることができ、また楽しむことができる。飛行機で遠くへもわずかな時間で移動できる。瀬戸大橋があるとないとでは大違い。そんな物質文明の恩恵に預かるとき、つくづく有り難く、人間に生まれてよかったと思う。病気になっても、抗生物質のおかげでその苦しみはかなり軽減された。しかし、雲仙普賢岳や阪神大震災をはじめ、自然の猛威を目の当たりにするときに、改めて人間の無力さを思い知る。そして今また、vreとしてよみがえる病原菌。人間社会を根底から揺るがしかねない大きな脅威と考えるのは、大げさなことであろうか。

第4章 命

 忙しい現代社会において、子供が入院したり、年老いた父母の介護をすることは容易ならざる負担である。経済的にはもちろん、心理的にも重くのしかかってくる問題である。そんな苦しい心を支えるべきものが、少なくとも日本には皆無と言っていいかもしれない。単なる道徳観や倫理では、とても支えうる物ではない。医者は病気の治療に専念すべきであり、患者や家族の心のケアまでは望むべきでないかもしれない。むろんただ機械的に義務的に治療を施されたのでは、たまった物ではない。

 近年重要視されている、医療ソーシャルワーカー。患者や家族のために、経済的な問題も含め、病気を取り巻く諸問題に親身になって相談に応じ話を聞く、心の支えのための専門職とでも言おうか。有意義で、素晴らしいことと思う。そういうカウンセリングのあるなしで、心の支えのあるなしで、病と闘う上で、そして病を乗り越えた後の人生に大きな違いが生まれてくるのではなかろうか。また、そういうカウンセリングであるべきであると願う。しかし、あくまで病気になってから後、接することのできるカウンセリングである。願わくは、病気になる前に、日頃からそういう心構えができないものであろうか。

 人は、必ず死ぬ。世の中に絶対はないが、唯一この事だけは絶対である。病気になろうとなるまいと、事故に遭おうと遭うまいと、財産があろうとなかろうと、社会的地位があろうとなかろうと、学才があろうとなかろうと、そしてたとえ健康であっても人はやがて必ず老いて、いつか絶対死ぬ。この、世の中に唯一の絶対を、己の人生で唯一の絶対を、しばしば人は見失う。

 今、vreの脅威にさらされている人類。やがてこの問題が現実味を帯びて、自分たちの社会に迫ってきたとき、更に自らvreに感染したとき、毅然と尊厳を持って己のそして他人の命を見据えることができるのであろうか。

 今年の夏に猛威を振るったo−157。あのとき、感染者に対する差別が問題となった。「○○ちゃんは、o−157に罹ったから、もう近づいては駄目よ、一緒に遊んでは駄目よ」そう我が子に言う親の心に、感染した子供に対する思いやりなど感じられない。日頃命は大切とは言いながら、いざとなっては甚だ情けない。伝染病には指定されたものの、隔離の必要のないものであるとわかった後にでもこうである。結局、他人はどうでもよいのであろうか。感染した人たちを励まし、手を差し伸べともに支え合ってなどと言っても、きれい事と笑われ聞いてもらえないのかもしれない。肉体は感染することはなかったが、o−157の毒素に心が蝕まれてしまったように思えてならなかった。

 人と人との心の繋がりの稀薄になった家庭や社会は、いとも簡単に崩壊の危機にさらされる。丁度ラグビーで、緩いスクラムが簡単に崩れるのと同じである。一人一人がどんなに優れていても、結束がなければ戦えない。また、その逆のこともいえる。

 一人一人の命は、はかなくてもろい。この地球の環境がなければ生きていけない自然の一部としての存在、空気がなければ生きていけない命なのである。この地球の環境の中に生かされていることを、今、一人一人に考えてもらいたい。そして、命のレベルでお互いの存在をたたえ合い、手を差し伸べあってもらいたい。そのとき初めて、揺るぎない人間社会となり、たとえ病に肉体は滅んでも、心まで蝕まれることのない、暖かい社会になると信じる。

 そしてこの事をどうやったらみんなにわかってもらえるのであろうか、今後の課題である。

 最後に、番組を見ながら思い出した言葉があるのでそれを書いて終わりにする。病原菌も間違いなく生きている。命というレベルでは同じである。しかし、病原菌は我々にとって脅威的な存在である。その病原菌との戦いを見ながら思い出した言葉である。自分で思い出したとは言いながら、その意味をかみしめると、我々の心のあり方に対し困難な課題を提起する言葉である。
「憎しみは憎しみによって新たな憎しみを生むのみ。その憎しみを癒やすことが出来るのは慈悲だけである。」

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