以下の記述は、1999年11月14日の京都新聞「京都遊行」(梅原猛さん)、木津町役場発行の「広報きづ」(2000.10.1)、日本史辞典(角川書店)を参考にしました。
「御霊神社由緒書」には、八所御霊として8つの社が記されている。
8つの場所でそれぞれの御霊神が祀られていたということは、八所にそれぞれ主役の怨霊神がいることになる。
[参考]御霊会(ごりょうえ、または、みたまえ)
| 社 | 御霊神 |
|---|---|
| 藤社(藤森神社) | 崇道(すどう)天皇 |
| 京極上御霊 | 吉備真備(きびのまきび) |
| 京極下御霊 | 伊豫(いよ)親王 |
| 高野御霊 | 崇道(すどう)天皇 |
| 木津御霊 | 藤原広嗣(ひろつぐ) |
| 上桂御霊 | 橘逸勢(たちばなのはやなり) |
| 綴喜御霊 | 火雷天神 |
| 下桂御霊 | 文里宮田麻呂(ふんやのみやたまろ) |
| 祭 神 | 右殿(八幡宮): 応神天皇(誉田別命) 神功皇后(気長足姫命) 仲哀天皇(気長足仲彦命) 左殿(天満宮): 生国魂命、菅原道真(天満天神) |
| 摂 社 | 恵美須神社:大国主命、事代主命 |
| 末 社 | 厳島神社:市桙島姫命 八王子神社:熊野久須日之命 天王神社:須佐之男命 日出神社:天之忍穂命 水谷神社:速秋津姫命 |
| 代表者 | 中岡 英文 |
| 所在地 | 木津大谷1 電話72-1350 |
旧木津5か村の氏神である岡田国神社は、飛鳥時代の654年に生国魂命を祀ったのが始まりで、938年には八幡宮に応神天皇を祀ったと伝えられている。また平安時代に入ると天神信仰が高まり菅原道真公を祀るようになった。以後、天神宮(天神社)と称されていた。明治6年に郷社に列せられ、11年に岡田国神社と定められた。また、明治9年には稲荷神社・恵美須神社が池田23番地から、厳島神社が雲村41番地から移転され、現在の姿ができた。
旧本殿は1774年に、旧拝殿は1620年に再建されたものである。旧本殿は現在空殿になっているが、境内に能舞台を中心にした拝殿、南北氏子の詰所が配置された構成は、相楽郡地域に伝わる社殿配置形態で、室町時代の惣の社の姿を伝える重要な遺構。岡田国神社は、現在もこの形式が保存されている数少ない神社で、昭和63年に府登録文化財に指定された。神社の森も府文化財環境保全地区になっている。
昭和53年に建立された新社殿は、本殿・末社・拝殿・南北氏子詰所・社務所などで構成されている。また、神社参道は専用跨線橋になっているが、これは全国でもほかに例のないものである。
神社の背後には広大な山林社有地があり、これは徳川家康から拝領したものと云われている。
1582年、本能寺の変により、徳川家康が泉州堺から、領国の三河へ向かったものの、田辺付近で身の危険を感じ、木津川西岸を上がって木津に到着した。岡田国神社で休息し、神主にそれからの道案内を頼んだ。神主は息子2人に食糧の手配をさせながら、国道163号線を東へ、滋賀県信楽町にある多羅尾代官所まで案内し、家康一行は無事三河にたどりつくことができた。その後、天下人となった家康は、1604年、堺脱出の天神社神主の功績に対する褒賞として、11万坪の土地を分け与えた。1697年には、境内の山林、神社の領地を拝領した。これが、神社の財産として現在に至っている。
疫病を鎮める神仏習合の祭り。奈良時代以来、政治的陰謀の犠牲者の霊は、疫病を広め、たたりをすると信じられていたが、平安時代、特に疫病が流行した際、当時農村で行われていた怨霊しずめの行事を国家で採用した。怨霊の代表的な早良(さわら)親王ら6人を六所御霊と称して、863年に京都の神泉苑で盛大に祭ったのに始まる。
奈良時代中期の公卿。738年、大養特(やまと)国守兼式部少輔となったが、翌年、大宰少弐に左遷された。玄ム・吉備真備らの専権を非難し、北九州で乱を起こしたが、1ヶ月ほどで敗れ、殺された。
江戸時代、木津村は木津郷とよばれており、本郷(大路村・千童子村・枝村・小寺村・南川村・上津村)と枝郷(梅谷村・市坂村・鹿背山村)からできていた。その本郷のうち上津村を除く5つの村。
平安時代前期の公卿・学者・文人。天皇の信任厚く、藤原氏を押さえるために重用された。901年、藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷され、その地で死んだ。後に、天満天神として信仰された。
室町時代、荘園解体期に現れた村人の集まり。
鉄道線路の上にまたがって設けた橋。