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南山城村/祭りやイベント

田山の花踊り 起源

大正13年花踊りいりは
大正13年花踊りいりは

 田山花踊りの発祥は、安永2年(1773年)に奉納した、という記録が残っているだけで、それ以前の事は詳らかでないが、歌詞や踊りの形態から相当古くから伝承されてきたと思われる。

 花踊りを研究され、「京都府相楽郡南山城村田山の花踊りについての考察」という論文を発表された。大谷女子大学文学部教授 水原渭江先生の論文の一部を記載する。


愛宕踊
愛宕踊

田山の花踊りが何時の頃誰によって伝えられたか、という問題は十分に解明することが出来ないけれども、大和下市の丹生地区のいとま踊りの雨乞い踊りやら大柳生の太鼓踊り、島ヶ原村や信楽町の太鼓踊りなどを総合的に調査研究すれば、そうした一連の文化が柳生から街路沿いに伝播していったものとする考え方が生じてくる。

そうした文化とは内容的にもすこぶる異る棒術が伝えられているのは、現在も伝えられている柳生の里の武術であって、同藩の関係から伝えられているものと思われる。

それは天狗流棒術であったことは、道化とともに天狗がいることによっても十分想像されることで、たとい、長谷川流とはいえ、棒振り、払い棒、といったものとの関連を考えてゆくと、こうした疑問は解決出来るはずで、山伏という、いわば似てもつかぬ要素が混入したと考えるよりは、むしろ、修験者の棒術の影響を受けた柳生藩の長谷川流がそもそも天狗流であったと解すべきかと思われる。

また神社を管掌した観音寺の修験文化の投影とも考えられる。

しかし、天狗が裲襠とおぼしきものをつけ、鳥甲をつけているあたりは、舞楽的な余薫をかぐことも出来る。

ササラをもつところは田楽といった要素も認めることが出来るが、その影響はほとんど消失してしまっている。

こうした芸術的要素は江戸時代に入って付け加えられたものと考えられる。

柳生藩における田山の石高は550石で、かなり重要な地域であったことがわかる。

そうしてまた、交通の要衝にあったことなどから考えると、祭礼の形式に武家的なものが多分に遺されていることも理解することが出来る。

本太鼓
本太鼓

踊りの唄の歌い方といい、その旋律といい、上鴨住吉神社のものよりは随分と新しい要素を付けて変化してきているが、これは講式などの流れをうけた鎌倉時代の詠いの原初的なものを遺しているものと判断される。

また、猿楽能らしく、その歌い手の動作にその遺響を認めることが出来る。

従って、この田山には猿楽能が古くから演じられていたことはまず疑う余地はないかと思われる。

そうしたところへ、江戸時代に入り次々と新しい要素が加わってきたとみるべきではなかろうか。

歌い手の装束からみれば、歌い手は踊り(それは猿楽能的なもの)と詠いをかねてしまったといってよく、題目立の芸術文化と概して時代を遠く隔ててはいないと結論される。

そうした時代が何時であるかについては、にわかに断定しがたいけれども、鎌倉時代の初期を下ることはまずないであろうと思われる。



「田山花踊り 記念誌」より
(2000/10/25 モモ)

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