相楽地区は、古くから開けており、圏域西部の丘陵地からは、弥生中期の湧出宮跡や椿井大塚山古墳など縄文・弥生時代の遺物が数多く出土している。地域の中央を流れる木津川は3〜4世紀には既に交通路として利用されており、6世紀には、その水路を通じて西部に高麗人が大陸文化を携えて渡来し、相楽文化の発展を促した。高麗寺跡や稲の豊作を祈る居籠り祭りは今もその名残をとどめている。
西暦740〜743年にかけて、一時平城京から恭仁京に都が移され、その史跡は現在加茂町で発掘が勧められている。恭仁京遷都の頃、泉津(現在の木津)が港として栄えるなど、交通・商業の要衝となった。平安京遷都後も、平安京と平城京を結ぶ街道上拠点として、さまざまな文化の融合する文化性豊かな地域として発展した。
鎌倉時代後半から集約的な栽培農業の展開により農業生産力が高まり、農民層の中で自治的な村が形成された。圏域の特産物である宇治茶や当尾の柿などの栽培が始まったのもこの頃である。
鎌倉時代には、笠置山が後醍醐天皇の元弘の乱の舞台となり、南北朝の内乱に巻き込まれたが、村々は名主を中心に団結、守護勢力を山城国内から追放して8年間の自治を実現した(山城の国一揆)。こうした経緯を経て室町時代には惣国として発展するなど、歴史的に農民の自治意識の高い地域であった。
江戸時代には、木津川の治水、新田開発に力が注がれ、薪や炭、肥料などの物資の運搬で、淀〜木津間の水上交通が活発化した。
明治元年、京都府が発足すると相楽郡としてその行政区に組み込まれた。京都府は、南山城村の童仙房開拓に力を入れ、一時期京都府支庁を置いたが、開拓の挫折や交通の不便さから支庁は木津に移り、木津が相楽郡の中心となった。
木津川の水運は、陸路の発達や水害に対する河川改修などにより衰退したが、数多くの文化財や史跡が相楽の豊かな歴史を今に伝えている。
昭和60年代に入り、関西文化学術研究都市建設が京阪奈丘陵地帯で開始された。全部で12クラスターからなる都市建設の内、センターゾーンを含む4クラスターが、精華町と木津町に立地しており、これにより、大規模先端都市が相楽西部に出現することになる。センターゾーンを含む精華・西木津地区や平城相楽地区は開発が先行し都市びらきも行われており、それに伴い急速な都市化の進行が見られている。
2000余年の歴史文化の中に先端技術・知識を有する文化学術研究都市を内包し、互いに認め合い相楽の文化を発展させていくことが、圏域の大きな課題のひとつであると言える。
