童仙房開墾記


開墾記  この文書は明治初めに書かれたものであり、原文は漢字とカタカナのみです。ここでは、旧仮名遣いを今の仮名遣いに改め、カタカナを平仮名にし、旧字体を新字体に改め、句読点をつけ、さらに、一部、難しい漢字を平易な漢字に改めました。


山城国相楽郡字童仙房地は東隅に壁在し、東北は近江国甲賀郡に界し、東南は柳生藩領に接し、西南は藤堂藩領に接し、小堀数馬これを管す。
四隣の村民、おのおの其の藩の領地なりと言い張り、往古より争論訴訟止む時なし。
もとより人民伐勝の無税山にて、いずれへ所属すとの証拠なければ、徳川執政中、弐百七拾年間、裁定判決なくして、維新明治の政体と押し移れり。
ここにおいて、皆人開拓して国益を起さんと欲し、太政官に出願す。
太政官はこれを地方庁京都府に嘱託して以て議せしむ。
この時に当り、童仙房地に界を接する藤堂藩柳生藩、皆、京都府に建議し白す。
朝綱一新、府藩県の三者、一体同治となる。
領地境界の争論、毫(ごう=わずか)もなくなれり。
皆、太政官御処置の儘にて違背少しもなしと陳述す。
ここにおいて多年の争論ことごとく皆、消滅す。
維新時、明治三年二月六日なり。
時に京都府知事正三位長谷信篤、従五位守大参事松田道之、正六位権大参事槙村正道、従六位守小参事藤村信郷馬場氏就相議し、説く。

府下の生霊(=人民)五拾万に下らず。
管内の租、十万石に満たず。
糴(かいよね=買い入れた穀物)を他邦に仰ぐ、五拾余万石、方今(=今)、士族卒属の帰農せんと企望する者、勝て計るべからず。
聖上、常に西京に在さず。
これを以て都下、日に寂寥(せきりょう)、五拾万の生霊、涸魚のごとく、その心、焼くがごとく、煎るがごとし。
しかのみならず、凶歉(=ききん)荐(せん=しきり)に至り、運輸道塞がば、すなわち数拾万の生霊、餓死を免ることあたわず。
今、京都他邦に異なり、窮民を移し、荒蕪を開き、農を勧め、良木を種植し、産物を蕃殖せしむるより急なるはなし。
今、管下に童仙房の荒蕪地あり。
野獣猖獗(しょうけつ=荒れ狂う)、良穀を残害す。
開かず、移さず、坐祝して餓死を俟(=待つ)は、豈(あに)生民の託を受る者の職ならんや(=どうして、この世に生まれてきた者のすることであろうか?いや、してはならない)。
伏尸(ふくし=倒れている死体)街を填(うず)むに至りて、悔ども既に遅し。
今これを移し、これを開くは、溺を救い、焚を済(すく)うがごとくなるべしと。

すなわち明治三年二月、実地を検査し以て状を朝廷に請う時に、大蔵省書を贈りていわく、「京都府の政議、その理至極せり。神速開拓創むべきなり」と。

ここにおいて議決し計り、事定まり、府下無産の民を録し、四百九拾余口を得、これを童仙房地に容れて開墾せしむ。
土木掛を以て開拓掛を兼しめ、少属市川義方をして、これを監督せしむ。
一事を起す毎に、義方、府庁に趨(はし)り、指揮を請う。
知参事その状を詳(つまびらか)にして、その宜(よろし)きを計り、官財を出して以て指図し、その方を面授す。
義方、謹て教を奉し、その事を施業す。
終(つい)に竣成を奏し、一村落を成し、古村と同じく並列せり。
五穀熟し、菜蔬(さいそ=野菜)滋(しげ)る。
薯(=じねんじょ)芋苧(=からむし)麻茶桑、一として蕃孳(はんじ=繁る)せざるはなし。
混沌(=世の始まり)以来の荒廃地、野獣巣窟の患害場、一朝変じて庠序(しょうじょ=学校)の声となり、国産繁殖のその業を開くは、聖上の至、仁民に入の洽(こう=広く行き渡る)深に頼るといえども、皇祖眷祐、新政を祝し給える賜(たまもの)によるものなり。誌して以て後世に遺伝す。

維時明治四年十月一日
  京都府土木掛兼開拓掛少属市川義方