童仙房開拓記

市川義方扣   


開拓記  この文書は明治初めに書かれたものであり、原文は漢字とカタカナのみです。ここでは、旧仮名遣いを今の仮名遣いに改め、カタカナを平仮名にし、旧字体を新字体に改め、句読点をつけ、さらに、一部、難しい漢字を平易な漢字に改めました。


童仙房開拓始末記

京都府管下山城国相楽郡童仙房の地たるや、日本開闢(かいびゃく=天地の開けはじめ)以来、未開の一所と伝語す。
そもそも太古は考うべからず。
徳川氏執政中、無税地にして、いずれの領地、いずれの村にも属せず。
該地の西南隅は藤堂藩の領地に接し、東南隅は柳生藩の領地に接し、東北隅は江ыb賀郡に界す。
西と北は御領に接し、小堀数馬、これを管す(=管理した)。
その中間、東西およそ壱里拾八町、南北およそ壱里拾町、平面積およそ弐千弐百有余町は、全く往古より無税(=税がかからない)の空地(=空白地帯)にして論山論地(=言い争いばかりしている土地)と言い伝えり。
藤堂氏の村民、柳生氏の村民、御領の村民、おのおの自ら我が領分地の区域なりと言い張り、勝手次第、恣(ほしいまま)に入り込み、伐樵(ばっしょう=木を切り薪とする)して持ち帰れり。
正徳年中(=1711〜1716)に至り、始めて争論を起こし京都市尹(=ちょうかん)に訴訟して裁決を乞う。
府尹これを糺(ただ)せども、確乎たる証拠なきゆえ、裁判なし難く、荏苒(じんぜん=歳月が長引くこと)年月を空(むな)しく経過し、明治政体となるまで裁判つかざること、ほとんど百八拾余年なり。
その間稚木蕃孳(=木がどんどん茂ること)し、野獣潜慝(せんとく=ひそみ隠れる)し、日夜境界に出没し、田畑の良穀を残害す。
人民憂患限りなしといえども、いかんともなすことなし。

明治維新藩籍返上に及びすべて一体同治となり領地の争論、頓に熄(や)む。
ここにおいて府庁この土を開墾して無産の士族を移住せしめて以て産を授くるの議を立ててこれを大蔵省に稟申し、すなわちその許可を得て、ついに明治三年二月府庁の官吏少属市川義方に命じて開拓方を担当せしむ。
義方、実地跋渉して開墾方法の計画を上る。
官すなわち可として命を下す。
これによりて義方感激して荊棘(けいきょく=いばら)を芟除(さんじょ=刈り除く)し、民家を建築し、土地を分附し、夫食(ふじき=農民の食べる米穀)を与えて、その工を施す。
その工夫たる。
京都市中の人民を移し、使役して以てその飢寒を賑わす。
同四年七月に至り、開拓の業、竣成せり。
しかるに、廟議中ごろ変じて、士族には十分の一の家禄を賜う規則となる。
ここにおいて士族移住の議は止みたり。
よってさらに京都市中および郡中人民の有志者を移植して、もってこの地の耕民とす。
義方命を領し、それ食を与え農器を授けて、もって開拓せしめて、耕耘播種の方(=方法)を訓陶(くんとう=徳を以て人を感化し、すぐれた人間をつくること)す。
神宮を勧請して神明を畏敬し自己の幸福を祈らしむ。
小学校を設けて孝悌忠信を導く。
竣成するや荊棘の悪穢は稲麦となり、野獣の窟は人家となり、田畑の立毛を害する者、とみになくなれり。
しかして許多(きょた=たくさん)の山林はのこさず一村中人民樵蘇(しょうそ=草を刈ること)の働山となし下せり。
移住人民は業を励み、農間に薪炭を樵りて京都伏見に輸出す。
京都伏見の薪炭に乏しからざるは、まったくこれがためなり。
野獣北へ去りて、その影なし。
これみな、開拓なせし幸福なり。

当時、戸数百四拾戸、人口大約(=およそ)五百口。
相競うて、もって、産物当殖の基礎を起こすを期す。
学校には吾伊(ごい=読書)の声絶えず、神社には祈鈴の音繁し。
古村旧邑と同じく轡(くつわ)を並べて馳るに至るは全く、朝恩の深重なる賜なり。
歳時嘉穀を供え、朝恩の辱きと神祐の冥助を永く忘れざらしむるを要す。
この地の性質と開拓なしたる旨趣の忘滅せんことを恐れ、誌して以て後世に遺伝す。
明治四年十月一日   土木掛兼開拓掛少属市川義方